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	<title>奥比叡の里より「棚田日詩」 &#187; 私の自然観</title>
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		<title>自然音痴の棚田日詩</title>
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		<pubDate>Sun, 13 May 2012 05:19:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kakashi</dc:creator>
				<category><![CDATA[私の自然観]]></category>

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		<description><![CDATA[皆さ～～～ん！       皆さんは、稲穂に可愛い花が咲くことをご存知でしたか？       ドングリがどんな木にできるのかご存知でしたか？       柿の木に白く可憐な花が咲くことを知っていましたか？ 私は知らなかったのです！！ 奥比叡の里と出会うまでは・・・ その時40歳、私にとっては小さな感動でした。お米にせよ柿にせよ、それまでスーパーなどで売られている商品以上のものを想像することはなかったのです。しかしよくよく考えてみれば、知らなかったというのは正確でないのかもしれません。一般的な植物は、花が咲き、その花の中の雄しべと雌しべが受粉して実＝種ができるということは、学校で習って知識としては知っていたはずです。その知識が、目の前にある現実の稲穂や柿の木と結びつかなかっただけのことなのでしょう。私は少年期・青年期を京都市の中心街、大丸を遊び場として育ちました。そのせいか、稲の花や柿の花を目撃するという体験がなかったのも事実です。自然体験の乏しさは自認するところです。 &#160; ところが、私のような写真を撮っていると「自然の生き物」については、相当詳しく知っているのではないかと勘違いされる方がおられます。とんでもない誤解です。私は自分の撮っている草や虫の名前すら知りません。たいていは撮影後に図鑑で調べてはじめて名前を知るという段取りです。しかも覚えた途端に忘れていくため、同じ動植物を何度も何度も図鑑で調べなければならないというハメに陥ってきました。最近は面倒くさくなって、調べることすらアキラメテしまいました。私は正真正銘の自然音痴です。  生き物たちに対する知識が乏しいだけでなく、ある種の生き物に対しては嫌悪や恐怖すら感じてしまいます。ヘビ・クモ・蛾・蜂・ムカデ・ゴキブリ・ナメクジなどは、近寄るだけで気持ちが悪く、恐ろしくなってきます。怪しげな？草むらに入る時は、長靴は必需品。効果のほどは定かではありませんが、できるだけ大きな声で歌を唄うか、大きな足踏みをして、彼らを先に逃がすようにしています。ただ23年も田んぼの写真を撮っていると、最近は彼らとも少し仲良くなれてきたのかなと思います。  東京の銀座や六本木と尾瀬の湿原、どちらに行きたいですか？と問われれば、何の躊躇もなく尾瀬を選ぶでしょう。私の自然に対する無知、ある種の生き物に対する嫌悪感、それらがイコール自然嫌いということではないようです。南米のアマゾン奥地やギアナ高地に行ってみるかと問われれば、生きて帰れる自信は全くありません。私にとってそこは神の領域であり、私の日常生活とは異次元の別世界として存在しています。どうやら、私にとっての自然は、ある種の心地よさと共に危険と恐怖の感情、更には畏敬の念を抱かせるものとしてあるようです。  もし自然に《大・中・小》《上・中・下》というものがあるとすれば、家の庭にある自然は小自然の下。人の生活を拒む極地やアマゾンの奥地の自然は大自然の上。とすれば、「奥比叡の里」の自然は、恐らく「中自然の下」といったところでしょうか。この「中自然の下」の自然こそ、都会育ちの私がかろうじて許容できる自然ではなかったかと思っています。ある意味、里山の代表格である農空間は、私のような自然ビギナーの入り口となる素晴らしい所なのかもしれません。  私には、自然の生き物たちを科学的探究心で見るという習慣がありません。またそうした視点で見なければならない生活の必然もありません。それでも、朝陽に輝くクモの巣や菜の花の間を忙しく飛び交うモンシロチョウは美しいと感じるし、人の気配に逃げ惑うヘビや耳元でブンブン羽音を立てて威嚇するクマバチなどはイジラシクさえ思えてきます。硬い樹皮を割って出てくる桜の蕾には拍手を送りたい気持ちになります。私の写真は、そんな気持ち（感情や情緒）を写してきたものです。ファインダーの中で私と彼らを結び付けているのは、生態に対する科学的知識でもなく、お百姓さんが持つ利害でもなく、第三者的な単純な感動や心のざわめきであり、ある種の美意識というものです。  ただそのベースには、同じ生き物としての共感があるように思います。一つの生命がこの地球上に誕生して40億年。その一つの生命から、長い長い生命の系譜の先に私たち人間もいます。弱肉強食の厳しい掟の下でしか生きていけない自然界にあって、しかも生物絶滅の危機を何度も何度も乗り越えてきた生命。過酷な環境の変化にも巧みに機能と形を変えながら無数の種を発展させてきた生命。互いの姿形は大きく異なってしまったけれど、40億年という途方もない時を背負って今ここで出会う不思議、奇跡、その感動と共感が私と彼らとの間をつないでいます。 そんなことをいつもいつも考えて写真を撮るわけではありませんが、そうした気持ちがベースにあるから、飽きもせずに彼らを撮ってこれたのかもしれません。   最後にもう一度お断りしておきます。私は自然音痴です。私に「自然」についての難しい質問は、絶対にしないでください！！]]></description>
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<p>皆さ～～～ん！</p>
<p>      皆さんは、稲穂に可愛い花が咲くことをご存知でしたか？</p>
<p>      ドングリがどんな木にできるのかご存知でしたか？</p>
<p>      柿の木に白く可憐な花が咲くことを知っていましたか？</p>
<p>私は知らなかったのです！！ 奥比叡の里と出会うまでは・・・</p>
<p>その時40歳、私にとっては小さな感動でした。お米にせよ柿にせよ、それまでスーパーなどで売られている商品以上のものを想像することはなかったのです。しかしよくよく考えてみれば、知らなかったというのは正確でないのかもしれません。一般的な植物は、花が咲き、その花の中の雄しべと雌しべが受粉して実＝種ができるということは、学校で習って知識としては知っていたはずです。その知識が、目の前にある現実の稲穂や柿の木と結びつかなかっただけのことなのでしょう。私は少年期・青年期を京都市の中心街、大丸を遊び場として育ちました。そのせいか、稲の花や柿の花を目撃するという体験がなかったのも事実です。自然体験の乏しさは自認するところです。</p>
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<p>ところが、私のような写真を撮っていると「自然の生き物」については、相当詳しく知っているのではないかと勘違いされる方がおられます。とんでもない誤解です。私は自分の撮っている草や虫の名前すら知りません。たいていは撮影後に図鑑で調べてはじめて名前を知るという段取りです。しかも覚えた途端に忘れていくため、同じ動植物を何度も何度も図鑑で調べなければならないというハメに陥ってきました。最近は面倒くさくなって、調べることすらアキラメテしまいました。私は正真正銘の<strong>自然音痴</strong>です。<br /><br />  生き物たちに対する知識が乏しいだけでなく、ある種の生き物に対しては嫌悪や恐怖すら感じてしまいます。ヘビ・クモ・蛾・蜂・ムカデ・ゴキブリ・ナメクジなどは、近寄るだけで気持ちが悪く、恐ろしくなってきます。怪しげな？草むらに入る時は、長靴は必需品。効果のほどは定かではありませんが、できるだけ大きな声で歌を唄うか、大きな足踏みをして、彼らを先に逃がすようにしています。ただ23年も田んぼの写真を撮っていると、最近は彼らとも少し仲良くなれてきたのかなと思います。<br /><br />  東京の銀座や六本木と尾瀬の湿原、どちらに行きたいですか？と問われれば、何の躊躇もなく尾瀬を選ぶでしょう。私の自然に対する無知、ある種の生き物に対する嫌悪感、それらがイコール自然嫌いということではないようです。南米のアマゾン奥地やギアナ高地に行ってみるかと問われれば、生きて帰れる自信は全くありません。私にとってそこは神の領域であり、私の日常生活とは異次元の別世界として存在しています。どうやら、私にとっての自然は、ある種の心地よさと共に危険と恐怖の感情、更には畏敬の念を抱かせるものとしてあるようです。<br />  もし自然に《大・中・小》《上・中・下》というものがあるとすれば、家の庭にある自然は小自然の下。人の生活を拒む極地やアマゾンの奥地の自然は大自然の上。とすれば、「奥比叡の里」の自然は、恐らく「中自然の下」といったところでしょうか。この「中自然の下」の自然こそ、都会育ちの私がかろうじて許容できる自然ではなかったかと思っています。ある意味、里山の代表格である農空間は、私のような自然ビギナーの入り口となる素晴らしい所なのかもしれません。<br /><br />  私には、自然の生き物たちを科学的探究心で見るという習慣がありません。またそうした視点で見なければならない生活の必然もありません。それでも、朝陽に輝くクモの巣や菜の花の間を忙しく飛び交うモンシロチョウは美しいと感じるし、人の気配に逃げ惑うヘビや耳元でブンブン羽音を立てて威嚇するクマバチなどはイジラシクさえ思えてきます。硬い樹皮を割って出てくる桜の蕾には拍手を送りたい気持ちになります。私の写真は、そんな気持ち（感情や情緒）を写してきたものです。ファインダーの中で私と彼らを結び付けているのは、生態に対する科学的知識でもなく、お百姓さんが持つ利害でもなく、第三者的な単純な感動や心のざわめきであり、ある種の美意識というものです。<br /><br />  ただそのベースには、同じ生き物としての共感があるように思います。一つの生命がこの地球上に誕生して40億年。その一つの生命から、長い長い生命の系譜の先に私たち人間もいます。弱肉強食の厳しい掟の下でしか生きていけない自然界にあって、しかも生物絶滅の危機を何度も何度も乗り越えてきた生命。過酷な環境の変化にも巧みに機能と形を変えながら無数の種を発展させてきた生命。互いの姿形は大きく異なってしまったけれど、40億年という途方もない時を背負って今ここで出会う不思議、奇跡、その感動と共感が私と彼らとの間をつないでいます。</p>
<p>そんなことをいつもいつも考えて写真を撮るわけではありませんが、そうした気持ちがベースにあるから、飽きもせずに彼らを撮ってこれたのかもしれません。<br /><br />   最後にもう一度お断りしておきます。<strong>私は自然音痴です</strong>。私に「自然」についての難しい質問は、絶対にしないでください！！</p>
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