奥比叡の里より「棚田日詩」 | 蝉しぐれ

2012/08/12

蝉しぐれ

これは朝焼けでも夕焼けでもない。童謡「赤とんぼ」にある小焼けの方である。ここでの夕陽は、奥比叡の山々の背後に落ちていく。山が邪魔をしているのか、あまりドラマチックな夕焼けは出ない。その代り夕陽が沈む反対の東の空(琵琶湖側)に、この日のような美しい小焼けが出ることがある。この情景を見たとき、夕暮れの茜空を背景に柿の木をシルエットで表現してみようと思った。カメラを三脚に据え、絞りや露出をあれこれ考えている時に、土手の影から突然おじいちゃんが現れた。私はそれまで、あまり人物を撮ることはなかった。この時は何故か「一枚撮らせてもらっていいですか?」という言葉がつい口から出てしまった。おじいちゃんも「いいよ」と快諾。焦ってしまったのは私の方だった。カメラは買ったばかりの6×6判(中判カメラ)。操作もまだ分かっていない。この逆光の中でストロボも持っていない。「レンズは広角? それとも標準?」「え~と、え~と絞りはf16?」「露出補正は-2/3? いやいや+2/3?」「ピントはどこに?」などとやっているうちに汗だけが頬を流れていく。結局レンズの交換からシャッターを押すまでに1分ほども掛かってしまった。こちらの焦りと緊張が伝わっていったのか、おじいちゃんもだんだん不安げに固まっていく。本来なら、おじいちゃんがこちらに歩いて来る様子をイメージしていたのだが、コチコチに固まった記念撮影のようになってしまった。どうしても小焼けの美しさを出したかったため、おじいちゃんの顔は暗くなってしまった。お許しください!

   この写真は、20年程前のちょうどお盆も過ぎた頃である。稲穂が育ち、田んぼも少し黄色くなり始めている。おじいちゃんにお礼を言って、撮影機材を愛車に仕舞い始めた。緊張が解けてふと一息つくと、この風景全体が蝉しぐれの中にあった。