奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2014 | 1月

2014/01/29

ポニー

奥比叡の里にも、今まで見ることのなかった新しい風景が少しづつ増えてきた。このポニーの写真もその一つである。

30数年前から仰木村に隣接する形でニュータウンが造成されてきた。そこに京都や大阪などの都会の人たちが移り住むようになった。2000年辺りを境に、この都会からやってきた人たちと仰木の地元の人たちとの交流がポツポツと目立つようになってきた。この棚田日詩でも何度か紹介してきたが、都会の人達と一緒になった米作りや炭焼き、棚田の環境整備などもその一例である。芸大主催の写生会や村の社会学的調査、里山の自然観察会なども行われてきた。

そうしたことに止まらず、ニュータウンには多様な要求を持つ人たちが集まっている。このポニーは、ニュータウンの人が棚田の中に土地を借りて育てているものである。現在4~5頭飼われているようである。時折、人を乗せて棚田巡りをされている姿を見掛ることもある。他にも、桜公園の近くにある棚田の中では、美しい名古屋コーチンを飼っておられる方もいる。この10年、私の写真にもそうした光景が写るようになってきた。

こうした光景の背景には、写真家の今森光彦さんの活動やNHKの放映などによって、この地が「里山」として注目を集め、広く知られるようになったことも大きい。また中山間地農業と都会の人たちを結び付けようとする行政的支援もある。私は、農村と都市の人々の交流がもっともっと活発に行われるべきだと思っている。しかしこうした交流を必要とする農村側の事情、労働力の不足と高齢化、後継者の不在等々といった問題、要するに農業環境を維持することが難しくなってきたという事態を考える時、このポニーに対する視線にもちょっと複雑な気持が入ってくる。


 

先々週の木曜日、突如パソコンが立ち上がらなくなってしまいました。マザーボードの交換や電源系統の修理で、ようやく昨日私の手元に送り返されてきました。一週間、更新が抜けてしまいました。この間、閲覧していただいた皆様に心からお詫び申し上げます。

2014/01/12

写っているのは棚田の土手である。この写真は、今から23年程前、田んぼ写真を始めて2年目くらいのものだと思う。当時のコダックでデジタル化してもらったものをそのまま使っている。その頃の風景写真の世界といえば、前田真三さんが一世を風靡しておられた時代である。当然私にとっても憧れの写真家のお一人であった。彼の美しくも端正な風景の中に、こんな電柱やコンクリート擁壁をモチーフにした写真はなかったように思う。この写真を撮るまでは、私の写真にも、電柱やコンクリート擁壁は写っていない。美しい風景写真を撮りたいと願うアマチュアカメラマンの一人とすれば、こうしたものを撮るのには少なからず勇気がいった。田んぼ写真を始める時、常識や固定観念などに囚われず「心に響いたものを撮ろう」と決めていた。それがこの一枚となった。アマチュアにとって写真を撮り続けていくということは、そうした固定観念などの殻を一枚づつ脱ぎ捨てていく過程であり、自分自身の美意識や写真が少しずつ信じられるようになっていく過程なのかもしれない。ただ、なぜこの風景に心惹かれたのかは、今もよく分からない。

「一度見よ、しからずんば・・・・」

私の写真友達から、「よう同じ地域の田んぼばっかり25年も撮り続けていられるなぁ。飽きへんのか?」と言われてきた。「飽きへんのか?」と問われれば、飽きることもある。しかしこの「飽きる」ということは、私自身の対象に対する見方に進歩がないということだと思っている。

25年という歳月が長いのか短いのかは別にして、一つの事柄を50年、60年と続けておられる方はいっぱいおられる。そうした方たちから見れば、私の田んぼ写真などはハナタレ小僧のようなものである。

奥比叡の棚田と初めて出会った1990年、出会ったその日にライフワークとしてこの地を撮り続けていこうと決めていた。この決意の背後には、私の心に突き刺さっていた一つの言葉があった。

私が一眼レフカメラを初めて手にしたのは1985年、35才の時である。その一年ほど前から、写真雑誌はよく見ていた。単純に写真を見るのが好きだったのと、結婚後子供ができなかったので何か老後の趣味をと思っていたからである。カメラを手にしてからは、ヘタクソな写真から少しでも早く卒業したいという思いで更に多くの写真雑誌を購読していた。ここでいうヘタクソとは、撮った時の感動が少しも他の人に伝わらない写真のことである。私の場合、撮った本人にもその感動が伝わってこないヒドイものであった。当時の愛読書は、カメラ毎日・アサヒカメラ・日本カメラ・フォトコンなどであった。その中に小さな評論文のようなものがあった。前後の内容は完全に忘れてしまったが、その評論の中の一文が強く心に突き刺さってきた。『一度見よ、しからずんば千度見よ』という言葉であった。

奥比叡の棚田との感動的な出会いと同時に、これこそ「千度」見るのに相応しい風景ではないのか?と私は思った。それから今日まで、私の写真の傍らにはいつもこの言葉があった。

 

恐らくこの言葉は、写真の世界の格言のようなものなのだろう。『一度見よ』とは、初めての出会いの瑞々しい感動を大切に写真を撮れということのように思われる。『しからずんば千度見よ』とは、そうでなければ、対象の奥深くに入り込んだ写真を撮れということではないのだろうか。もちろんこの「見よ」は一つの比喩であって、そこには様々な意味が含まれているのだろう。見る・観る・診る・視るはもとより、学べということや問題意識を持って考えろということも入っているのかもしれない。あるいはもっと広義に取れば、経験しろということも含まれるのかも知れない。当時の私は、この言葉に妙に納得した。そして対象に迫るシンプルな方法として、今も納得している。

あれから25年、「千度」を遥かに超えて見てきたはずだ。にもかかわらず対象の奥深くに入り込んだ写真を撮れているとは思えない。それが私の心象的な写真の中に反映されているとは思えない。心に、撮り切ったという満足感もない。だから今は、この格言を次のように訂正している。

『一度見よ、しからずんば万度見よ』

2014/01/05

仰木棚田米、いかがですか?

 

昨年9月、仰木の棚田で採れたお米はいかがですか?

仰木棚田米を一度食べてみようと思われる方は、

下記のURLを覗いて見てください。

http://tanada-diary.com/tanada-products/fp_01

 


 

ここはお米の生産現場であり、農業という経済活動が営まれている空間です。「昔ながらの棚田」の景観や「里山環境」がどんなに素晴らしくても、先ずはお米が再生産できる価格で売れなければ、あるいは買っていただくことができなければ、この環境を守り、維持していくことはできません。

私は都会で生活する一人でも多くの人々に、この地の美味しい棚田米を知っていただきたいと思っています。ぜひ一度、食べていただきたいと思っています。但しここでの「仰木棚田米」の応援は、私の勝手な行為であり、お米の売買には一切タッチしていません。

「昔ながらの棚田」で育てられるお米の量は少なく、限られたものです。もし申し込まれたとしても、在庫がなくなり、農家からお断りされるかもしれません。何卒、ご理解いただきますよう、お願い申し上げます。

 


今週のDiaryは、お休みさせていただきます。

2014/01/01

祈り/新しい年を迎えて

もう、何十年くらい前になるだろうか。テレビの正月番組を見ていると、ネイティブアメリカンの族長が「初日の出」に向かって祈りを捧げていた。その祈りの内容は驚くほどシンプルなものであった。「家族が健康でありますように」「家族や部族の仲間が仲良く暮らし、部族間の争いもなく、平和でありますように」「自然が豊かな実りを与えてくれますように」というものであったように記憶している。日本人の伝統的な祈りの言葉に置き換えてみると、無病息災・家庭円満・家内安全・五穀豊穣、そして平和への祈りといったところだろうか。恐らく私たちホモサピエンスの誕生以来、肌の色や民族、国境を越えて人類共通の願いがこの祈りに込められてきたのだと思う。

残念なことに私たち現代人は、まだこの願いを実現するところにまでは来ていない。社会の利害は複雑に絡み合い、今も世界のどこかで硝煙の煙が立ち昇っている。一方で発展途上国と呼ばれる地域では、9億前後の人々が飢餓の淵に立たされ、毎年1,500万人がその飢餓を原因として死んでいく。その内の約500万人が、5歳に満たない子供たちである。他方、先進資本主義国と呼ばれる国々では、需要(消費)を遥かに超える過剰な供給(生産)によって、大量の失業者を孕む「豊作(過剰)貧乏」という奇妙な現象の中で多くの人たちが苦しんでいる。

私個人について言えば、日常の些末な事柄に振り回され、目の前にある出来事にすら満足な対応が取れないでいる。せめて、心の一番奥深いところで、このシンプルな三つの願いをシンプルな形でしっかりと持ち続けていたいと思っている。そんな願いが、私の写真にも宿ってほしいと思っている。

新年にあたって改めて、皆様のご健康と、平和な環境の中での稔り豊かな生活をお祈り申し上げます。そして、奥比叡の村々の農業が、豊かな稔りをもたらしますことを心から願っています。

 


 

1月5日のDiaryは、休ませていただきます。今年もまた、宜しくお願い申し上げます。