奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2014 | 3月

2014/03/30

四月の棚田

あと2日で四月である。 四月は、田植え前の最後の準備でにわかに慌ただしくなる。田んぼには水が張られ、畦の補修(天耕の棚田)や代掻き(しろかき)という作業が行われていく。代掻きは土と水を混ぜ込み、泥々の状態にしつつ、田んぼ全体をほぼ水平に整地していく作業である。真ん中の小屋の後ろにある田んぼの何枚かは、水面から土が覗いている。これは畦の補修が終わったばかりで、まだ代掻きが行われていない田んぼである。その後ろの黄土色に濁った田んぼは、代掻きを終えたばかりのところである。かつては牛を使って代掻きをしていたが、今日ではトラクターが使われている。

代掻きが終われば、その後一週間前後で田植えが始まる。その苗は、後ろの小屋の横にあるビニールの育苗シート(苗代)の中で育てられている。

四月は、棚田の土手も緑色に変わり、その中にスミレやタンポポの花が嬉しそうに咲き誇ってくる。あと3週間ほどすれば、奥比叡の棚田全体がこのような風景に包まれていく。

この写真を撮ったのは、23~24年前に遡る。当時、おばあちゃんから「この辺りの田んぼのいくつかは、戦中・戦後の食糧難の時代に国の指導に従って山を削って創り出したもんなんや」「当時は多くの働き手が戦争に取られてたもんやから、残された年寄と女・子供が中心になってやったんや」という話を聞かされていた。こうして作られた棚田は、耕作面積も小さく、今では耕作放棄地になっている所が多いようだ。

農具小屋の後ろの雑草だらけの棚田も耕作が放棄されている。よく見ていいただくと、写真の左上に雑草に覆われた棚田がある。当時すでに耕作は放棄され、山に戻りつつあった。その後、この谷の棚田のほとんどと言っても良いほど、全部が耕作放棄地となっていった。

今は更にその姿を大きく変えている。写真の左の方には、新しい二車線の農道(奥比叡棚田街道「どうしよう」)が開通した。それに伴って田んぼも圃場整備され、四角い大きな田んぼに生まれ変わっている。

この昔ながらの棚田の風景もまた、農業をめぐる環境の変化、時代の移り変わりという荒波の中で消えていかざるを得なかったようだ。

2014/03/23

土づくり(堆肥)

水ハケが良く、かつ、水持ちが良い。田んぼの土は、この正反対の性質を同時に充たすことを求められている。この相反する要素を土に持たせるために、古来より堆肥が使われてきた。堆肥は、刈り取られた雑草や落葉、鶏や豚・牛馬の獣糞、人糞、稲わら、家庭から出る生ゴミなどの有機物を微生物に分解させることによって作られてきた。堆肥の歴史には様々な考えがあるようだが、古くは縄文時代、大陸からの米の渡来と伴にその技術が入って来たのではないかという説もある。

今日では化学肥料の普及もあって、堆肥を自分で作る人は少なくなっている。ただ西村さん(仰木棚田米嬉しいメール)などは、棚田の一角でご自分で作っておられる。

今日の写真は、田んぼに捨てられた蕪(カブ)である。この他にも、柿やミカンの皮、白菜などの外葉、間引かれた玉ネギなどの野菜、等々の生ゴミ的なものが捨てられている。ここでは「捨てられた」という表現以外に思い付かなかったので、あえてこの言葉を使っているが適切ではない。これらは決して「捨てられた」ものではないからである。農家の人たちからすると、これも土づくりの一つであると考えておられる。この写真の蕪も、やがて土の中に鋤き込まれ、微生物などによって分解され、堆肥的な役割を果たしていくのだろう。

稲刈りの終わった10月頃から翌春の3月頃まで、こうした光景をそこかしこの田んぼで見掛るようになる。殊に、春先には増えてくるように思われる。

古来より米を主食としてきた日本人。その日本人の食生活と生命は、田んぼの片隅に現れるこんな小さな光景にも支えられてあったのではないだろうか。

2014/03/16

先々週あたりから、梅の花がほころび始めた。別名「春告草」とも呼ばれている。確かに、寒風の吹き抜ける冬枯れの棚田にあって、一番乗りで華やかさを添えてくれるのが梅の花である。正に春の来訪を告げているように見える。朝夕の黄色味を帯びた空の下で見る梅の花は、どこか天平の時代に連れ戻してくれるような風情がある。

春を代表する花といえば、今日では桜である。しかし平安時代以前は、当時の憧れの中心であった中国文化の影響を受けて、梅の花がその代表格であった。「桜見の宴」ならぬ「梅見の宴」が催されていたのだろう。

棚田に点在する梅の木は、偶然そこにあるわけではない。すべては果実を採るために、そこに植えられ育てられている。目的は、梅干しや梅酒などである。観賞も兼ねて、農家の庭木となっているものも多い。

古代の梅干しは、保存食というよりも、黒焼きされて虫下しや熱冷ましの漢方薬として使われていたようだ。今日の梅干しは半年ほどの賞味期間だが、昔ながらの製法(塩分濃度30~50%)で作られた梅干しは100年は優に持つそうだ。梅干しの並外れた保存特性にも驚かされるが、この他にも傷の消毒や伝染病の予防、防錆処理などにも広く使われてきたという。梅干しをご飯の真ん中に置いただけの「日の丸弁当」は、素朴だが最強の弁当なのかもしれない。

古来より、日本人の生活の最も近くに寄り添ってきた果樹が梅の木だったのではないだろうか。しかも本州以南の全国津々浦々、何処ででも育てられてきた果樹だったのではないだろうか。そうした意味では梅の木は、柿の木(棚田の柿の木)と共に日本人にとって最も里山的な果樹だったのではないだろうか。

2014/03/09

春の棚田色

かつて伊香立と仰木との境目あたりに2つの小さな谷間があった。もちろんこの2つの谷間も、昔ながらの小さな田んぼが積み重ねられた棚田であった。ここで過去形で書いているのは、一つの谷間は、すでに工事用などの残土で埋め立てられてしまっているからである。

今日の写真は、残された方の谷間の棚田である。この田んぼの左の方がどうなっているのかは、今年の11日の写真(http://tanada-diary.com/date/2014/01/01)を見ていただければ、お分かりいただけると思う。谷の地形や棚田の形状が面白いだけではない。遠く琵琶湖の向こうに近江富士を望み、近景の田んぼの畔には多くの雑木が彩りを添えている。四季を通じて小鳥たちがこの木々に集まり、谷間にそのさえずりを響かせている。本当に美しい棚田の景観であり、里山空間である。

この田んぼは、伊香立の東さんが耕しておられる。撮影をしていると、年に何回かは必ずお会いする。「この谷間も埋め立てられるんですかね?」と聞くと「業者が買いには来ているが、売るつもりはないんや」と笑っておられた。その東さんを、この3年ほどお見掛けすることがなくなった。それに伴って、たちまち背の高い雑草が田んぼを覆い隠し、今は荒れ果てた耕作放棄地のようになってしまっている。何十年にもわたって東さんが流してこられた汗。その汗が、この写真のような美しい田んぼを生み出しているのだということを今更ながらに思い知らされる。田んぼでお会いするだけの関係だが、お身体を悪くされたのか、気掛かりは増すばかりである。


2月の下旬頃は比較的温暖で、気温も10度を超す日が多く、オオイヌノフグリやタネツケバナ、ホトケノザ、タンポポといった草花が少しづつ顔を出し始めていた。一転、先週から今週に掛けては雪の吹雪く冬日となった。中でも10日は、棚田一面が真っ白に染まるような3月にしては珍しい大雪であった。

この写真では、畝にタネツケバナの白くて可愛い花が咲いている。その畝の黒っぽい土の中から、雑草たちが新芽を伸ばし、徐々に畝を緑色に変えていく。枯草色の畦や土手、灰褐色の土、緑に染まり始めた畝。これが3月初旬から下旬に掛けての田んぼの代表的な色彩である。この25年、こんな田んぼの色の移り変わりに、本格的な春の気配と歓びを感じてきた。

* 花の写真については、昨年3月の  春の予感3月の雪それぞれの浅春  をご参照ください。

 

2014/03/02

足あと

雪の吹雪く寒い日も、蝉の鳴き声に包まれた暑い日も、毎日々々、この農道の上を軽トラックが走り抜けていく。アスファルトに現れた小さなひび割れ。トラックが踏みしめる度に、少しづつ少しづつ崩れ、やがて大きな水たまりが作り出されてきた。このコーヒー缶も何十回、何百回踏みつぶされてきたのだろうか?

農業という日々の営みの足あとが、こんな形でも写っている。