奥比叡の里より「棚田日詩」 | セイタカアワダチソウ

2013/10/13

セイタカアワダチソウ

セイタカアワダチソウ(背高泡立草)。この雑草を初めて意識したのは、私が高校生の頃だった。というと、今から47年ほど前、西暦1966年(昭和41年)にまで遡る。学校は京都の中心街からバスで45分ほど離れた南の端の方にあった。まだ辺りには田んぼも残り、京都の市立高校としては少し牧歌的な所にあった。それでも都市化の波はこの辺りにも押し寄せていた。田んぼは徐々に埋め立てられ、住宅や企業、工場用地などに変わっていきつつあった。

教室の窓からは、埋め立てられた田んぼの空き地がいくつか見えていた。丁度今頃の季節になると、その空き地は目が痛いほどの黄色の花で埋め尽くされていた。それが私の記憶に焼き付いた一番最初のセイタカアワダチソウであった。埋め尽くされていたというのは、正に文字通りで、他の草花の生存を許さないほど、びっしりと空き地全体を覆っていた。私はそれまで、ビルの谷間のようなところで育ってきたためか、こうした光景を見ることもなかったし、この草を意識することもなかった。

この雑草に対する当時の印象は、かなり異様なものだった。私の背丈を優に超し、2~3mはあっただろうか。威圧感を感じるほどだった。日本の草花を駆逐するかのように思えるほどの増殖力は、どこか恐ろしくもあり無気味であった。同じ黄色でも、菜の花畑のような優しさが感じられない。さすがに海の向こうの巨大大陸アメリカの雑草だと、妙に納得するところもあった。当時は花粉症の元凶のようにも言われていたが、どうやらこれは濡れ衣だったようだ。いずれにしても、北アメリカ大陸原産のこの雑草は、箱庭のような日本の細やかな風景や四季に全くそぐわないものだと感じていた。

もちろん奥比叡の棚田にも、この雑草は進出していた。しかし、どこででも同じ密度でこの雑草を見掛るわけではない。比較的多く群生しているのは、新しく圃場整備された棚田の土手や耕作放棄地などである。現在工事中である棚田街道http://tanada-diary.com/6588参照)の土手などは、外から持ち込まれた土の中に種が含まれているのか、大量のセイタカアワダチソウが群生している。

総じて、ご先祖から代々受け継がれてきた昔ながらの棚田の周辺ではあまり見かけない。こうした所では、外から持ち込まれる土の量が少ないのと、こまめな草刈りなどによって、この草自身が増殖しにくいのかもしれない。

先に、この雑草の背丈が2~3mほどあったと書いた。しかし最近見掛るセイタカアワダチソウは、1mにも満たないものが多くなってきたように思われる。随分低くなった。背泡立草になりつつあるようだ。半世紀ほど前には日本の草花を駆逐するかのように思えていたが、どうやら最近はススキや他の雑草たちとも共生するようになってきたようだ。どうしてそうなってきたのかは分からないが、日本の環境に適応し、日本化して来ているように見える。

上のセイタカアワダチソウの写真。日本の古来からの田園風景とは違い、どこかに異国情緒を感じてしまうのは私だけなのだろうか。