奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2013 | 5月

2013/05/26

La・ La・ La♪ Ta・u・e

かつて農村では、折りたたむように腰の曲がってしまったおじいちゃんやおばあちゃんをよく見かけました。信州にいた私のおじいちゃんとおばあちゃんも、会う度毎に小さくなっていくように見えるほど腰が曲がっていきました。そうした時代(50年ほど前)の農家のおじいちゃん・おばあちゃんからすれば、まさか「田植え」が体験学習やレクリエーションになるとは思いもよらなかったことだと思います。良かれ悪しかれ、農業とそれを取り巻く環境が大きく変わってきたのは確かなようです。

  この日の週間天気予報は雨。皆さんの日頃の行いが良かった?のか、優しい春風の吹く、青空の中での田植えとなりました。タイトルを「La・ La・ La ♪  Ta・u・e」としたのは、仕事としての「田植え」とはやはり意味が違うと思ったからです。だから横文字にしてみました。それにしても楽しい「Ta・u・e」。今日の主人公は「笑顔」です。

 


 

 * 今回の写真は、私の写真仲間である那和順一さんの写真を中心に構成させていただきました。素晴らしい春の一日の「記念」にという思いで撮影させてもらったものです。

撮影にあたっては、主催者と皆様の承諾はいただいていますが、プライバシー等の問題がある中でご依頼があれば直ちに削除させていただきます。削除依頼は、主催者である「平尾  里山・棚田守り人の会」か「リビング滋賀」、あるいは右上のカレンダーの下にある私のメールアドレスに直接ご連絡いただければ結構です。宜しくお願い申し上げます。

  * この事業の詳細は「平尾  里山・棚田守り人の会」のホームページをご覧ください。

          http://oginosato.jp/moribitonokai/ownernissi/2013/05/2013518.html

 

 

 


 

例えば、毎日食べる夕食。ご飯や野菜、肉や魚が料理としてテーブルの上に並べられています。私の場合、そこでの関心は、その料理が好きか?嫌いか?、美味しいのか?どうかといった少し贅沢な嗜好の中にしかありませんでした。もちろんそうした嗜好以前に、カロリーや糖分・塩分、アレルギー食材などに十分な注意を払わなければならない人たちも多くおられます。ただ私の場合は、幸いにもそうしたことに関心を払うということはほとんどありませんでした。私の関心は、もっぱら目の前の料理が美味いのか?どうかといったことより先に進むということはなかったのです。

目の前のお米や野菜が、どこで、どのようにして、誰によって育てられ、私の目の前に届けられるようになったのか? そこにどんな問題があるのか?  などということは、知る由もなかったし、疑問に思うこともありませんでした。私のように都会で育ち、長く都会で働いてきた者にとって、そこは遠い遠い見えない世界のことでした。要するに、料理を食べるという消費の立場からしか食べ物を見ることができなかったということです。「食」という人間の生存に関わる基本的な行為についても、ほとんど何も見えていなかったということです。

私にとって奥比叡の里との出会いは、「食」の生産現場との出会いでもありました。初めて見る農業でした。今まで考えもしなかったことも教えていただきました。それまでとは違った生産の立場からの「食」の見方も、ほんの少しできるようになったのかも知れません。振り返れば、心の中の風景も豊かになったように思います。この24年間、ここで私が見たもの、感じたこと、考えたこと、そして教えていただいたこと、それらのことを私と同じ都会で育ち、都会で働いてきた人たちにお伝えできないかと思ってこのホームページを立ち上げてみました。その人たちに、美味しい奥比叡の棚田米をぜひ食べていただきたい、そのお米が育つ素晴らしい環境をぜひ知っていただきたい、お百姓さんたちの日々の悩みや喜びも知っていただきたい、そんな思いで綴ってきたホームページです。

更にできれば、テレビやネットや書籍などのバーチャルな世界だけではなく、御自分の身体で農業や農村に直に触れていただきたいと思っています。今回のような田植えを実際に体験されることは、とても意義のあることだと思っています。今日のように分業が細部にまで発達した社会、都市と農村が大きく分離してしまった社会にあっては、生産からは消費が、消費からは生産が見えなくなってしまっています。例え疑似体験の田植えであったとしても、今までとは違った「食」の 見方・感じ方が身体の中に芽生え始めるのではないでしょうか。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

 田植えという体験。それは、私の1000枚の写真、万の言葉よりも、遥かに多くの、そして遥かに大切な情報を心の中に刻み込んでいってくれるものだと思っています。殊に、子供たちにとっては掛け替えのない貴重な体験だったと思います。

楽しい農作業、あなたも自分のお米を育ててみませんか?

  このホームページの向こうにおられる方々にこうした思いをお伝えしたくて、前回の秋の稲刈りに続いて、今回の田植えの写真を撮らせていただきました。快く撮影に応じていただいた皆様に心よりの御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。



昨年秋の「平尾  里山・棚田守り人の会」が主催した稲刈りは、下記をご参照ください。

http://tanada-diary.com/1293  (収穫の歓び)

2013/05/19

  太陽の核融合の光と熱が約8分の宇宙の旅を経て、田んぼにそのエネルギーを伝えている瞬間だ。苗床(なえどこ)の籾は、積算気温100~120℃で発芽する。やがて葉と根を伸ばし、15cm程に育つと田植えである。この写真の稲は、田植え後数日ほど経ったものであり、既に根を張り始め、しっかりと自立できるようになってきたところである。その後の稲は、葉と茎を増やしながら、増えた茎ごとに穂をつけ、花を咲かせ、受粉した実が米となる。たった一粒の種籾が2000粒ほどの米を稔らせると言われている。この生命の奇跡、生命の不思議は、太陽の存在なしに起こり得ない。この光景は、米を主食としてきた日本人の食と命を支えてきた源風景かも知れない。

太陽降臨

上のタイトル写真は、説明がなければ何が写っているのかよく分からない写真かも知れない。朝の4時半頃、日の出とともに真っ赤な太陽が、田んぼの水面にその姿を映した瞬間である。その光は水面で乱反射し、それがレンズの作用で丸い火の玉のようになって輝いているところである。

  地球がすべての生命を育むゆりかごであり、母であるとすれば、太陽はその生命の父である。毎年こうした写真を撮る度に、いつもは忘れている太陽の役割を思い起こさせてくれる。核融合で生み出される太陽の膨大なエネルギーは、ここ奥比叡の小さな小さな田んぼにも届けられ、稲の成長を促すだけでなく、田んぼと関わる無数の生命たちをも目覚めさせていく。

 

 

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週末、「平尾  里山・棚田守り人の会」と「リビング滋賀」の主催で、田植えが行われた。総勢100名ほどの棚田オーナーたちが、朝からの春の半日、気持ちのいい汗を流されていた。

この田植えの様子は、今週中にUPしたいと思っています。棚田 滋賀県 仰木 棚田米 里山

2013/05/12

山や谷を削って創り出された棚田。このような写真を見ると、農業の基礎に土木技術があり、土木事業そのものだと思えてくる。想像してみてください。まだショベルカーやブルドーザー、ダンプカーなどのない時代に棚田を作り出した人達を。そこにどれほど多くの労苦と汗が流されたのかを。そこにどれほど切実な願いが込められていたのかを。私が初めて奥比叡の棚田と出会った時、何よりもそのことに心が震えたのだった。

里山について

 昨年、「棚田日詩」の立ち上げと同時に、自己紹介という意味合いで「農業」や「自然」というものに対する私の思いのようなものを書かせていただいた。その時に、「里山」や「写真」といったことについても書いておこうと思ったのだが、毎週日曜日の更新に追われて延び延びとなってしまった。2年目というキリのいいこともあって、それらのテーマについて私の思いを少し記しておこう思う。(少し長くなりそうです。関心のない方は文章を割愛して、写真だけを見てください)

 

 1992年から95年に掛けて、滋賀・京都・大阪の十数か所で写真展を開いたことがある。どの会場でも「美しい自然の写真ですね」という共通したお言葉をいただいた。その場では「ありがとうございます」とお答えしていたが、内心では「?????」という気持ちが渦巻いていた。この「?????」は、何だったのだろうか。

  第一に、私には自然を撮っているという意識が希薄だった。私の写真が対象としているのは、農業という第一次産業の空間であると思っていたからだ。

第二に、写真の中の稲や柿の木などは、人によって改良され育てられたものであるという思いが強くあったからである。山を削って造られた棚田は、自然そのものであるはずがない。山を見ても、杉や檜は植林されたものである。竹林や雑木林も人為のものである。野の草木も、人がそれを不必要だと思えば刈り取られてしまう。確かにタンポポやススキも、チョウやトンボも、ヘビやカエルも、その生そのものは自然のものである。しかしここには、人為の影響を受けていない自然はない。この自然を単に「自然」と呼んでいいのだろうか?

第三に、ネーチャーフォト(自然写真)というジャンルの写真家は、自然の不思議・秘密の奥深くに入り込み、それを映像化される人たちである。彼らは、ほとんど学者であり、人生そのものをそれに掛けている。と当時も思っていたし、今も思っている。私のような自然音痴のアマチュアカメラマンが撮る自然の写真など、「自然写真」と言われるだけでどこか申し訳なく、恥ずかしい思いがしていた。

  そんな思いが交錯して、先の「?????」となっていた。当時はまだ「里山」という言葉を知らなかった。農業経済と結びつき、農業生産と常にせめぎ合い、共存もしている生物学的自然、この社会の活動と相互の影響関係を持って存在する自然を何と呼ぶべきなのだろうか?  そこで思いついたのが「Social Nature(社会的自然)」「Human Nature(人間的自然)」という造語だった。「里山」という言葉を知るまでの半年か一年ほどの間、奥比叡の里の自然をそのように考えていたし、そのように見つめていた。

(注)  「里山」「奥山」という言葉は、既に江戸時代の文献にも見られるそうだ。近代的な意味での「里山」は、1950年半ば頃から生態学の中で発展してきた概念である。その「里山」という概念の中には、人の活動と相互関係を持つ生態系の実相、その歴史的変遷、社会的意義といった具体的な内容の詰まった、あるいはこれから更に詰まっていく概念である。他方、「Social Nature(社会的自然)」には、社会と生物学的自然との関係の具体的内容はなく、ある意味「空っぽ」の概念であり、思い付きを超えるものではない。ただ「里山」というものを理解するうえで下敷きにはなっていたと思っている。

 

美しい響きとともに、郷愁のような感情すら呼び覚ます「里山」という言葉。その言葉を初めて聞いたのは写真家の今森さんからだった。「あなたも里山を撮っているんや」と言われた時だった。確か1993年か94年の初め頃だったと思う。その時は、山里のことを「里山」という別の言い方もあるのか?と軽く疑問に思う程度だった。それから一週間も経たない頃だっただろうか。今森さんの写真集や著作を読み返していた時だった。突然「里山」という言葉が身体を貫いた。これは大げさな表現ではなく、実際にそのように感じたのだった。そこにある「里山」は、決して山里の別の言い方ではなかった。その時理解した「里山」とは、(できるだけ今森さんの言葉をなぞらえば)

①  人間の手の入らない無垢の自然を第一次的な自然だとすれば

②  里山は、人の暮らし、人の営みと互いに影響を及ぼし合って存在する生命ある自然。無垢の自然に対して里山は、二次的な自然だともいえる。

要するに、人の暮らしと共にある生物学的自然、その空間だと理解した。厳密な意味で、今森さんの言う「里山」がこの理解で正しいのかどうかは自信がないが、当時も今もこのように思っている。

「革命」だと思った。日本人の自然観の「革命」だと思った。ここでいう革命とは、それまでの日本人の自然観の延長線上にある概念とは異なり、質的に違う、新しいステージ、新しい段階を表す概念だという意味である。これまで私たちは、人の入ったことのないアマゾン奥地の生物学的自然も、田んぼの畔に立つ柿の木やその実を食べにくる鳥たちも共に「自然」だと理解し、それを分けて考えることはなかったのではないだろうか。

無垢の自然と社会的影響下にある自然を分離して(無関係という意味ではない)見る見方、「里山」という視点を持つことの社会的意義は重大である。
 「 自然との共生」。この言葉は、現代社会が自然との共生を忘れ、それをいかに破壊してきたのかという現実の反語である。わが国の国土の大部分の自然が里山化されている今日、人間活動(殊に経済活動)を考慮に入れない自然観、その下での「自然との共生」は、一つの空語に過ぎない。そしてそれはわが国のみならず、世界の自然が里山化されていく現代にあって、「里山」は世界史的意義を持つ概念であるはずである。

当時、私の身体を貫いた「里山」についての理解は、概ねこのようなものだった。

 

今森さんが「あなたも里山を撮っているんや」と言われた言葉は、少し正確ではない。今森さんは「里山」という思想・科学を目的意識的に映像化しようとしてシャッターを切ってこられた。私の写真に「里山」の思想や「里山」を映像化しようという目的意識性はない。むしろそうしたことをできるだけ意識せずに、心の向くまま、気の向くままに撮影しようと心掛けてきた。私にとっての「里山」は、撮影の目的や動機ではない。むしろ撮影の結果である。言葉を変えれば、「里山」を撮っているのではなく、「里山」が写っているといった方が正確だと思っている。

いつもファインダーを覗いていて、チョウや草花の写真だけでは何か情報量が足りないように感じてしまう。そこに人が作ったものや、人の気配のようなものがないと物足りなくなってしまう。こうした感覚は、田んぼ写真を始めた頃から今日まで変わっていない。そこがある意味、私の写真を里山的なものにしているのかも知れない。

  京都市という都会の中心街、自然とは遠く離れた所で育った一人の人間が、今森さんの言う「生命の小宇宙」と出会って何を感じ、何に心動かされたのか?  その軌跡のようなものが私の写真の中に写っているのも確かである。要するに、都会の人たちが「里山」(や棚田)という空間に出会って、そこでどんな心理的影響を受けるのかといった一例の写真であるとも思っている。

  このホームページのタイトルを「里山日誌」とせずに「棚田日詩」としたのには理由がある。振り返ってみれば私の個人的な関心が、生態学や自然の中にあったのではなく、もう少し人間の社会という角度からこの風景を感じ、見つめてきたからである。(単に見つめてきただけで、それを目的意識的に映像化しようとしてきたわけではない)  そして私の写真自体が、ドキュメンタリーのようなものではなく、心象的な色彩が強いと思っているので「日誌」ではなく「日詩」としてみた。

 

(「里山」については、もっと書かなければならないこともあるのですが、別の機会に譲りたいと思います)

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一番上のタイトル写真は、馬蹄形の棚田の右側の土手を撮ったものである。今日田んぼに出てみると、その馬蹄形の棚田の中心にある田んぼが田植えされていた。例年は、酒米の山田錦を植えているせいか、この辺りでは一番遅い5月末~6月初旬の田植えだった。今年は一般の食用の米を植えるため、早まったそうだ。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

2013/05/05

  4時過ぎ、朝陽を待つ。辺りはまだ暗闇に包まれていた。春だというのにセーターを重ね着しなければならないような寒さだ。闇を切り裂くような鳴き声を残してケリ(チドリ科)が飛び去っていく。時折、牛ガエルの濁声が響き、田んぼに飛び込む水音がする。やがて東の空が茜色に輝き、辺りの景色を染めていく。

  40億年以上繰り返されてきた夜から朝へのドラマチックな交代劇である。田んぼに描かれた小さな波紋。この波紋が遥か宇宙の彼方にまで広がっていくような、そんな不思議な感覚の中でこの風景を見つめていた。

水面が映すもの

 田植えの季節、棚田は水の大地に生まれ変わる。鏡のような水面が空や雲、新緑の柿の木やハサ木、そこで働く人々、周りの風景、周りの生命を映し出してキラキラと輝いている。奥比叡の里では、最も美しい季節の到来である。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

  「私が嫁に来た頃は、夜が明ける前から農作業の準備をし、昼ごはんやヤカンを持って牛と一緒に山の一番上の田んぼにまで行ってたもんや。ほんで、日が暮れるまで家には帰れんかった。」「帰りが遅うなったらなったで、『家の用事もせんと!』と言うて姑から怒られる」「最近の孫の嫁なんか、一緒に田んぼに出よう言うたら、すぐに『頭が痛い!』って言いよる(笑い)・・・・・」

この話をおばあちゃんから聞かされたのは、今から十数年前のことである。まだおばあちゃんの若かりし頃の70~80年前、農業は機械化されておらず、田んぼは多くの女性の労働力を必要としていた。今ではほとんど死語となっているが、「五月女」「早乙女」(さおとめ)という言葉がある。元々は田植えに際して田の神に奉仕する少女を指す言葉であったが、後に田植えをする女性全般に用いられるようになった敬称である。かつて田植えは、この早乙女たちによって支えられていた。この奥比叡の里でも、様々な年代の早乙女たちが田植えをし、谷間に若い女性たちの華やいだ声が響いていたはずだ。そして田んぼの水面には、彼女たちの田植え姿が映し出されていたはずだ。

私が田んぼの撮影を始めて24年、この間、若い女性の田植え作業を見掛ることは本当に少なかった。棚田の水面は、辺りの美しい風景を映し出すだけでなく、村に流れた時代の変化をも映し出してきた。