奥比叡の里より「棚田日詩」 | 時代は進む

2016/03/06

時代は進む

 今日の写真は、タイムカプセル(2014年2月9日)で書いていた「紙袋」の中から出てきたものである。恐らくこれも、捨てられるはずのフィルムだったのだろう。

この田んぼは、伊香立の南庄という村からほど近い所にあった。ここも圃場整備が行われ、今は長方形の田んぼが連なっている。たぶん「タイムカプセル」の写真よりも撮影時期は遅く、ちょうど今頃の季節に撮られたものであろう。どことなく春の足音が聞こえてくるような写真である。春耕された畝(うね)や畦(あぜ)、土手に現れる「緑」がそう感じさせているのだろう。

久しぶりにこの写真を見て、こんなにも柿の木が多かったのかと驚かされる。圃場整備の済んだ田んぼでは、柿の木やクヌギなどの木々が残されることはほとんどない。

奥比叡の里と初めて出会い、この地域のロケハンをしていた頃のことである。枝振りの面白い、特徴のある柿の木の何本かに「名前」を付けていた。というのも、棚田の中にはその場所を特定する地名がないからである(どうしよう)。当時は柿の木に名前を付けて、それを地名代わりに使い、同時に辺りの景色を記憶していった。「渋柿爺さん」「二股婆さん」「薪割り柿」等々といった具合である。こうした命名?柿は、地名代わりになっていただけでなく、四季を通じて私の格好の被写体ともなっていた。何十回、何百回とそれらの柿の木の前に立ってシャッターを押してきた。そしてシャッターを押すことを通して、それらの柿の木から写真というものの技術、難しさのようなものを教えてもらってきた。

「渋柿爺さん」は、今も残っている数少ない命名柿の一本である。彼の前を通る時は、挨拶を欠かさない。「おい、元気か!」「調子はどーや?」「暑い日がつづくなぁ! 」「ガンバレ・ガンバレ!」・・・・その挨拶が、もう27年も続いている。

ある日突然、それらの柿の木が姿を消していく。「エッ?!」という声以外に何も出てこない。

 農業労働力の高齢化や生産性の向上(機械化等)といった課題から見れば、畦に柿の木を残す理由はないのかも知れない。もし柿の木を残すとしても、それが更なる経済的利益をもたらすという論拠がなければならない。

しかし私にとっての柿の木は、そうした経済的利害とは少し離れた所にあった。柿の木は、四季の棚田を彩るなくてはならない名優であり、自給自足的経済が色濃く残る一昔前の農村の、その時代を象徴する記念碑でもあった(棚田の柿の木)。曲線で区切られた美しい田んぼ、雑木林、柿の木やクヌギ、小さな農具小屋、曲がりくねった農道、これらはともに一昔前の農村を象徴する記念碑である。その時代の記念碑が、一つ一つと消えていく27年間でもあった。私の心の中の喪失感は大きい。それでも、時代は進んでいく。


 

「棚田日詩」の更新ができませんでした。仕事で重要案件を抱えてしまったのと、身内の不幸が重なってしまったからです。何とか、月一回の更新はしていきたいと思っています。ボチボチとお付き合いいただければ嬉しく思います。