奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2015 | 2月

2015/02/22

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ③

(前段が少し長くなりました。今回は、「ちょっと気掛かり・・・」の3回目、本題の「里山」に入りたいと思います)

もう少しだけ、私の家の中の生きものたちについても書いておこうと思う。

辺りが暗くなり始めると、部屋の電燈に羽虫やツマグロヨコバイ、小さな蛾などが集まって来た。電球の周りを飛び交っているだけなら何の問題もないのだか、小さな羽虫などは、食べているうどんの汁の中に落ちてくることがある。もちろん羽虫は取り出すのだが、多少の気持ち悪さは残る。それでも、今のように大騒ぎはせずに最後までうどんをすすっていた。これが当時の衛生観念だと言ってしまえばそれまでだが、食べ物を捨てるなどという贅沢は許されない時代でもあった。

部屋の灯りに吸い寄せられる小さな虫を待っているのか、窓ガラスの向こうにはいつもヤモリのシルエットがあった。深夜になると突然、天井裏で大運動会が行われることがある。バタバタバタッ、ドドドドッと何者かが走り出す。その緊迫した足音に目を覚ましてしまうこともあった。恐らく青大将かイタチがネズミを追い掛けていたのではないかと思う。階段下に青大将の抜け殻が落ちていたり、壁際をゆっくりと這っているのを何度か目撃している。町内の各家庭では、ネズミ採りの金網とハエ取り紙やハエたたきは必需品であった。ネズミ採りに捕まったネズミは、いつも水の中で水死させられていた。蚊にも結構よく刺されていた。縞蚊が多かった。幼稚園に上がる前の頃は、蚊帳の中で寝ていた記憶がおぼろげながらある。この辺りはさすがに繁華街で飲食店が多かった。そのせいか、どの家にもゴキブリが出没した。町内では食べ物商売をしている家も多く、ネズミやゴキブリ・ハエたちとはいつも真剣勝負だった。

50年ほど前の京都市の繁華街には、こうした小さな生き物たちの世界が人々の暮らしと伴にあった。恐らく東京や大阪の大都市においても、更に言えば、日本中のすべての都市の中においても、こうした小さな生き物たちの世界があったのではないかと思う。

そこで質問です。皆さんは、私の子供の頃に出会った草木やその周りに生きる小さな生き物たちの世界を何と呼ばれるのでしょうか?

50年前の私は、それを「自然」と呼んでいた。しかし今は、その自然を「里山」と呼んでいる。

それでは『里山イニシアティブ』(以下 IPSIとする)は、京都市の繁華街にあった自然を何と呼ぶのだろうか?

IPSIの公式ホームページがある。その中に『コンセプト』という表題のセクションがある。ここには活動の目的や意義、活動の対象と指針、そしてIPSIの簡単な歴史など、最も基本的なことが述べられている。それ故、IPSIにとって最も重要な綱領ともいうべき文章となっている。(参照: http://satoyama-initiative.org/ja/about/

先の「京都市の繁華街にあった自然を何と呼ぶのだろうか?」といった疑問に戻ろう。実は、この『コンセプト』を何度読み返してみても、先の疑問に対する答えが見つからないのである。というよりも、はぐらかされるといった感が強い。その原因を考えていくと、「里山とは何か?」といった概念規定が明確になされていないからである。

そこで、このホームページの主催?となっているUNU-IAS(国連大学高等研究所/本部:神奈川県横浜市)と環境省の他の文書の中に「里山の概念規定」を探してみることにした。(続く)


(今回は、ここまでしか書けませんでした。何とか次回までに書き上げたいと思っています。関心のある方は、時々覗いて見てください。少しづつでも文章を進めたいと思っています。)


*   この二週間、文章を書き進めようと思っていたのですが、そのための「まとまった時間」が取れませんでした。何とか時間を取って書き進めていこうと「重たい心」にムチ打っています。文章が進まなかったこと、お許しください。

2015/02/08

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ②

(今回のDiaryは、前回からの続きを書かせてもらいます)

何とか子供の頃の埋もれた記憶を掘り返しながら書いている。もう50年以上も前のことである。曖昧な点も多い。最近では、記憶力よりも忘却力?が勝っているようで、中でも「人の名前」と「いつ頃から」というような時間観念の風化が激しい。

確か小学校の3~4年生(1960年)頃から学区内がにわかに騒がしくなったように思う。阪急京都線(四条大宮~河原町)の地下鉄工事が始まったからである。カーンカーン、ドーンドン、ダッダッダッダッダッー、今まで見たことのない掘削機や重機が暗渠化された四条通りを掘り下げていた。けたたましいのは工事の騒音だけではなかった。その振動は私の家の壁にひび割れを走らせるほどだった。ほぼ時期を同じくして、私の家の隣家であった円山応挙の邸宅が取り壊され、そこに大手証券会社のビル建設の工事が始まった。もう一つ、印象に残る工事があった。私の通っていた小学校は、まだ教育制度もなかった明治2年に町衆たちによって設立された学校である。そこに明治の面影を残した立派な木造校舎があったのだが、その取り壊しの工事も始まった。今でなら歴史的な遺産として保存運動でも起こりそうだが、当時は敗戦後の経済復興最優先でためらいもなく壊されていったようだ。

突然、私の生活の中に工事現場が入ってきた。本来なら多少不快な工事現場の出現ではあったが、子どもたちは素直にその環境を受け入れていった。そしてそこを未知の遊び場として開拓していくこととなった。殊にお隣さんの応挙の庭の工事現場は、格好の遊び場となった。町内の子供たちにとって幸運だったのは、基礎工事が始まり掛けたその時に、工事が中断してしまったからである。恐らく証券不況が襲ったのではないだろうか。一年ほど工事がストップし、現場から完全に人がいなくなった。それでも工事現場全体は高い板塀で囲われており、中を見ることも入ることもできなかった。もちろん「立入禁止」である。ただ、その板塀の一部にダンプや重機が通るための大きな片開きの扉があった。その扉は閉っているのだが、扉の下と地面との間に少しの隙間が空いていた。子供が寝そべってかろうじてすり抜けられるほどの隙間である。子供たちにとって、そこが工事現場へ入る入り口となった。

工事現場に入ると、既に200年ほどの時を経てきた応挙の庭はなかった。苔むした庭は掘り返され、樹木は一本も残っていなかった。もちろん茶室も跡形もなく消えていた。剥き出しになった土の中に人の拳から頭ほどの大きさの石ころがゴロゴロとあった。基礎工事の最中であったのか、掘り返されたままの地面は凹凸が激しく、正しく荒れ地のようであった。そんな荒れ地の中に巨大な井戸のようなものが掘られていた。もちろん水はない。一辺が6~7mの正方形。深さは5m~6mほどあっただろうか。内部は、周りの土砂が崩れ落ちないように頑丈な丸太板で囲われていた。子供たちは井戸の四隅からロープを垂らし、親が見たら気絶してしまいそうな危険な遊びをいくつも考案していた。私も3mほどの高さから何度か落ちていたが、不思議なほどケガはしなかった。そこは、大人たちの来ない子供だけの秘密基地であった。落ちていた板切れを組み合わせて小屋を作り、近所に捨てられた子犬を飼っていたこともあった。春から秋かけては、雑草のコロニーに集まるバッタやコオロギ捕りに夢中になった。ここではユニークな昆虫採集もできた。剥き出しの地面は凹凸が激しく、殊にダンプのワダチは相当深く掘り下げられていた。雨が降ると、3~4日は泥水が溜っていた。その水溜りに、アメンボやゲンゴロウなどの水生昆虫がやって来るのである。こうした水生昆虫は、小学校の工事現場にできた水溜りにもやって来ていた。ゲンゴロウなどは手で捕まえては、家に持って帰っていた。早々に水を入れたガラスのコップに移し、裸電球の下で飽きることなく泳ぐ姿を見ていた。確か、お尻から空気を吸うような仕草が不思議だったのを覚えている。

たぶん一年ほどで証券会社の工事が再開され、秘密基地での遊びも終わった。小学校の6年生になると、ビルも完成し、四条通りの風景が一層都会的になったような気がした。この時期、面白い虫捕りに夢中になっていた。採集道具は虫捕り網ではなく釣竿だった。1本1mほどの竿を3本継いでいたので、全長3mほどにはなっただろうか。夜の8時~9時頃に掛けて、子供たち数人がその竿をいっぱいに伸ばして四条通りを練り歩いていた。目標物は「赤いバッタ」であった。少し説明すると、このバッタの正式名は「クビキリギス」。「クビキリギリス」とも言うらしい。当時の私たちは「首切りバッタ」と呼んでいた。今の子供たちは「血吸いバッタ」という恐ろしげな名前で呼んでいるらしい。美しい緑色のスマートな身体を持ち、血を吸ったように口の周りだけが赤く縁どられたバッタである。ほとんどの個体は緑色をしているのだが、まれに赤い色をした「首切りバッタ」がいた。赤と言っても鮮やかな赤ではなく、茶系色にくすんだ赤である。それでも誰が見ても赤いと表現できるだけの赤さを持っていた。

当時の四条通りには、アーケードがなかった。ビルを見上げると、その壁の3~6mほどの高さの所に数多くの「首切りバッタ」がへばりついていた。釣竿の一番細い先端部分を壁に押し付けて、バッタを掃くようにして叩き落とす。私たちは一晩で捕まえる「首切りバッタ」の数を競い合った。烏丸通りから河原町通りまでのビルをくまなく探し廻ると、平均で50~60匹ほどの収穫があった。多い時には100匹を超える日もあった。その中に「赤いバッタ」が入っていると、とびっきりの自慢ができた。

この都会の中の風変わりな昆虫採集は、この一年だけで終わった。四条通りにアーケードができたからだ。以来、私の人生の中で、虫を追い掛けるということはなくなった。私も中学生になり、興味の対象が大きく変わっていったからだ。

 

前回のDiaryで、私の学区に小川はなかったと書いた。不思議なことに、私は毎年仏光寺の辺りでオニヤンマを追い掛けていた。なぜ不思議かというと、オニヤンマは水のキレイな川のほとりにいるトンボだと聞いたことがあるからである。この辺りで一番近い川と言えば高瀬川と鴨川である。高瀬川は鴨川の横を並行して流れる川なので、距離的には鴨川と同じと考えてもいいだろう。私の学区から、その鴨川までの距離は0.8~1.0㎞ほどになる。次に近い川といえば京都市の西端に位置する桂川である。鴨川と比べれば周りの環境も含めて遥かに自然は豊かなのだが5.0㎞ほども離れている。常識的な判断をするのなら、恐らく鴨川で生まれ、育っていると考える方が妥当な気がする。そしてもし、鴨川を生まれ故郷としているのなら、鴨川近辺にいた方が豊富なエサにあり付けるのではないのだろうか。どうして人や人家やビルの多い都会の中心地に来るのだろうか?

ゲンゴロウなどの水生昆虫も不思議である。彼らは、どこで生まれ、育っていたのだろうか。田んぼや池が棲家だと聞くが、学区内に大きな池も田んぼもない。大きな池と言えば二条城のお堀が一番近い。それでも1.5~2.0㎞ほどの距離がある。次に大きな池がある所といえば御所である。御所までの距離も2.0㎞を超える。あの小さな身体で2.0㎞といえば、随分な距離になるのではないだろうか。京都市周辺にある田んぼは、どこも5.0㎞以上は離れている。水棲昆虫であるゲンゴロウに5.0㎞も飛ぶ能力があるのだろうか。いずれにしても、それがどうして都会の真ん中にある工事現場の泥水の中で見つかるのだろうか。私の学区内に生息環境があったのかもしれないが、工事現場の泥水の中にエサとなる小さな生き物がいたとは思えない。彼らにとって、工事現場の水溜りにどんな意味があったのだろうか。

「首切りバッタ」も変わっている。四条通りの街灯に集まる羽虫や蛾などを食べに来ていたのだろうか?  しかしどう見てもビルの壁が彼らのふるさとではない。それでは彼らはどこからやって来るのだろうか。多くのバッタがそうであるように、彼らの生まれ故郷は緑の草に覆われた原っぱなのだろう。しかし私の学区に小さな草むらはあっても、何千匹という彼らを養っていけるほどの草原は見当たらない。思い当たるのは御所である。通路以外の庭園は雑草で覆われている。あるいは鴨川の土手や東山の山裾辺りも彼らの生息域なのかもしれない。彼らの仲間には、何百キロも飛翔するバッタがいると聞く。そんなことも考えると、京都市周辺部の自然の豊かな所に彼らのふるさとがあるのかもしれない。とすれば、彼らは5~10㎞以上の距離を飛んできたことになる。不思議なことに、朝になると彼らの姿が見当たらない。確かに白いビルの壁に緑の身体は目立ちすぎる。鳥たちの格好の餌食になってしまうだろう。夜には何千匹もいた彼らが、朝になるといったいどこに行ってしまうのだろうか。

子どもの頃に、こんな疑問を持って虫たちと付き合っていたわけではない。これらの疑問は、このDiaryを書き進めていく内に心に湧いてきたものである。彼らのふるさとなども勝手に推測しているが、常識のレベルで考えているだけで、実証的・科学的根拠など何一つあるわけではない。ただ、今から50年ほど前の京都市の中心地に彼らがいたことは事実である。そしてこの都会の中心地には、彼らが生まれ、幼少期を過ごす環境がなかったか、あるいは僅かしかなかったとすれば、彼らのふるさとが別の所にあったと考える方が自然なことではないのだろうか。

京都市は小さな都市である。市街地は東西10㎞、南北15㎞ほどしかない。その小さな京都市といえども、様々な環境で構成されている。オフィス街もあれば商店街や飲食街、住宅街もある。市場や町工場もあれば神社仏閣や公園もある。小高い丘の森もあれば市内を南北に貫く川や数多くの池もある。市街地の東・北・西の周辺部は山に囲まれているが僅かながら水田もある。南に行けば、そこに農村地帯が広がっている。

こうしてつらつらと考えてみると、私の学区にあった昆虫たちの自然は、学区内だけで自立的に完結した自然ではなく、京都市の他の地域、他の環境と密接に結びついて存在していたのだという思いがますます強くなってくる。

(次回に続く)