奥比叡の里より「棚田日詩」 | どうしよう

2013/08/18

どうしよう

棚田と出会った時、まずはロケハンだと思った。ロケハンとは、元はと言えば映画業界のロケーション・ハンティングの略語。広い意味では、撮影に先立っての現地調査とでも言えばいいのだろうか。どこにどんな道があって、どこに続いているのか?  あるいは行きどまっているのか?  気になる棚田や農家、ハサ木や柿の木、溜め池や川がどこにあって、四季を通じてどんな姿を見せてくれるのか?   1990年から93年あたりの4年間ほどは、撮影していてもそんな下見調査的な意識の方が強かった。南の坂本辺りから北の栗原辺りまで、南北15㎞・東西5㎞ほどにわたって棚田や雑木林が連なっているのだが、ほとんど全ての農道・林道を車で走り、自分の足で丹念に歩いた。恐らくこの期間、この地域にある田んぼで、私が見落とした田んぼは一枚もなかったはずだ。

それにしても農道は狭い。棚田の中の農道のほとんどは、軽トラック一台がようやく通れるような道巾しかなかった。時折脱輪する。さぁ、大変である!  一時間ほどは自力脱出を試みるが抜け出せない。いよいよJAFのお世話になる時である。これがまた、一苦労である。当時は携帯電話というものを持っておらず、村のお店や農家に駆け込んで電話をお借りする。山の上の方の農道で脱輪した時は、下の村まで駆け下りていくということもあった。ようやくJAFと連絡が取れても、今度は脱輪した場所の説明ができない。棚田の中には、細かい地名がないからだ。都会のように目立ったお店やポストやタバコ屋さんもない。「そこを右に曲がって、左に折れて・・・・・」と、説明のしようがないのである。仕方がないので、村の入り口辺りでの待ち合わせとなる。こうしてJAFの皆さんには、何度も救っていただくこととなった。それでも1995年以降は、JAFのお世話になっていないのではないかと思う。この時期の痛い学習が効いているのだろう。私のロケハンには、こうしたエピソードも含まれている。

 

先ほど、棚田の中には細かな地名がないと書いた。しかし全く地名がないかと言えばそうではない。村人たちの間にだけ通用している地名がある。一番上の写真の所にもちゃんとした地名が付けられている。その名は「どうしよう」である。ここは棚田を築こうとしても、何度も何度も土手が崩れてくる。そこで村人たちは「どうしよう」となったらしい。今でこそ写真右側の土手は、コンクリートという現代技術で厚く固められている。粗末な道具しかなかった時代、ここに棚田を築こうとした先人たちの思案と苦労が余計に偲ばれる。

「どうしよう」のすぐ近くにもう一つユニークな地名が付けられた所がある。その名を「くずれ」という。ここ数年、この「くずれ」の所で道路工事が進んでいる。

伊香立から日吉の西教寺に抜ける農道(私はこの道を「奥比叡棚田街道」と自分勝手に呼んできた)の工事である。元々「くずれ」は、小高い丘の斜面に棚田が積み重ねられていた所だった。その丘の真ん中をV字型に削り取って、その底に農道を通そうという工事である。当然農道の両側面はV字の斜面となっている。いくつかの工法が試みられているようだが、その都度、斜面が「崩れ」てくる。中々の難所である。道路全体の設計上、この「くずれ」を避けて通れなかったのかもしれない。あるいは、経済的合理性などがあったのかもしれない。この地を「くずれ」と名付けた先人たちは、この事態をどんな思いで見ているのだろうか?

 


 

今回は丁度「お盆」の直後。御先祖様を偲ぶという意味でこのテーマにさせてもらいました。

3・11の大地震と大津波の恐ろしい光景は、今も昨日のことのように私たちの脳裏に焼き付いています。そしてその後も、日本列島の揺れは一向に収まる様子がありません。東南海の巨大地震も想定されています。都市開発や道路建設などに先立って、御先祖様の地名などに託した思いに耳を傾けてみるのも地震対策や防災対策の一つだと思っています。そうした御先祖様の思い・願いは、様々な形をとって全国各地に残されているのではないでしょうか?