奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2012 | 7月

2012/07/29

草取り

猛暑日が続いていたが、この日は朝から曇り空だった。それでも日中の気温は34度。さすがに棚田に人影はない。少し温度の下る夕方頃から、ぽつぽつと田んぼに人が戻り農作業が始まる。この写真は、おばあちゃんが雑草の稗(ヒエ)を取っているところだ。腰をかがめ、稲の根元まで顔をうずめ、一本一本丁寧に雑草を引き抜いていく。車の温度計を見ると31度を指していた。風もなく湿度が異常に高い。じっとカメラを構えているだけで、不快な汗が体にまとわりつくように染み出してくる。熱中症が心配な過酷な環境である。おばあちゃんは2時間ほどかけて繰り返し繰り返し草取りをしていた。若者に引き継ぐことの難しい棚田農業がそこにあった。

2012/07/22

開花の季節

先週の17日、関西地方の梅雨明けが宣言された。これは何年か前の写真だが、雨蛙?の向こうに開花した稲が顔をのぞかせている。今年もそろそろ花を咲かせているかと思って、午後から田んぼに出てみたがまだのようだった。恐らく今週の25日頃を境に、一斉に花を咲かせてくれるにちがいない。もしお米の花を見てみたいと思われる方は、晴れた日の午前11時頃に田んぼに行ってみると開花の瞬間に立ち会えるかもしれません。収穫まであと5~7週間ほど。暑い暑いもう一夏を越えなければならない。

2012/07/15

雲が語るもの(加筆中)

今、私の目の前にあるもので「これは私が作った」といえるものは一つもない。パソコン・スマートフォン・カメラ・テレビ・照明器具・etc・etc・・・・  それを便利に利用させてもらっているが、私が作ったものではない。私には、これらのものを作る知識もなければ技術もない。毎日食べるご飯やおかずも、自分で作り採取したものではない。洋服や靴、住むための家、ガスや電気や水道、自動車や道路、新幹線や飛行機、インターネットやキャッシュカード、更には職場にあるすべてのものも私が作ったものではない。私はただそれらを利用(消費)させてもらっているだけだ。しかも、こうしたものを利用することなしに現代生活は成り立たない。これを少し角度を変えて見れば、他人の知識や技術、他人の流した汗に支えられて私の生活はあるということである。このことは、今日の社会が高度に発達した分業によって成り立っているということを表している。しかも今日の分業という鎖の輪は世界中に張り巡らされ、既に国際的だ。私たちは見知らぬ国の見知らぬ人の知識と技術、汗に支えられ、それに依存して生きている。もちろん私たち日本人の誰もが、国際的な分業の鎖の輪の中に入り、世界中の人々と互いに生活を支えあい、世界中の人々と繋がっている。私たち現代人は、狭い地域経済の自給自足とは対極にある国際的分業の時代、そしてその世界に生きている。

  自然の影響を直接受ける農業にとって、天気の予測は重大事である。農業においてこの天気の予測は、つい最近までそれぞれの村ごとに、そして人ごとに「伝承と経験と勘」に頼って行われていた。どの村のおじいちゃんに聞いても、「あの辺りに、こんな雲が出ると雨が降る」などということを教えてくれる。つまるところ私の少し前の世代の天気の予測は、村ごとの自給自足・地産地消であったということである。

今日では、天気の予測もまた国際的分業の鎖の輪の中にある。 国による天気予報が始まったのは1884年(明治17年)。当時は、日本全国を対象とするたった一つの予報であった。残念ながらこうした予報が、全国各地の現場の農作業に役立つはずもなかった。その後気象学は飛躍的な発展を遂げ、今日では陸・海・空の緻密な観測網の整備、更にはコンピューターを使ったデータ解析技術の進化、新聞やテレビ、ネットワークの発展によって瞬時に世界各地の天気予報を知ることができるようになってきた。ゲリラ豪雨や竜巻の予測といった狭い地域の予測はまだ難しいようだが、それでも70~80%の確率で天気予報が当たるようになってきたと言われている。今日の農業は、短期の天気予報のみならず、中・長期の予測も考慮に入れて営まれるようになってきている。

加筆中

2012/07/08

もう一つの風景

売ること(交換)を目的に作られた生産物は商品である。そうした意味では、棚田で作られるお米は商品である。私の棚田写真は、商品であるお米の生産現場を写したものであるともいえる。しかし、この風景はそれとは少し違う。
   ここは平尾の農家のお庭。梅雨や初夏を代表する紫陽花や半夏生(はんげしょう)の花が咲いていた。片隅にはナスやキュウリが栽培され、ビワやタラの木も立派に育っている。しかしその量からして、ご自宅で食べられるだけのものだと思われる。紫陽花などの美しい草花は、愛情や癒し、喜びや美の対象としてそこに置かれている。これらは商品としてのお米と違って、歩留りや品質、市場価格などというものを気に病むこともない。これは、商品生産という経済からは少し離れたところにある、もう一つの農村風景である。

 

2012/07/01

謎の日傘

不思議な風景である。花を咲かせているトウモロコシ、手前に並ぶ赤い花、緑の田んぼ、その田んぼの畔にのぞくエダマメ、左手奥に見える村のお墓、スギやヒノキの林、点在する柿の木、これらは意味もなくそこに置かれているものではない。存在する理由を持ってそこに存在している。そこに存在させた人の意志が、比較的分かりやすい風景である。その中で、この日傘は何なのだろうか? 日除けなのだろうか? そうだとすれば、何を日差しから守っているのだろうか? あるいは雨傘かもしれない。だとすれば、何を雨から守っているのだろうか? いずれにしても守られるべきものがここには見当たらない。ある意味、その謎がシャッターを切らせたと言ってもいい写真である。

20年ぶりにこの写真を眺めていると、突然あることを思い出してしまった。わが家の愛犬が、異常に傘を怖がっていたことを・・・・・ そうだ! この傘は鳥たちを脅かすためにそこにおかれたのに違いない。これは「かかし」なのだ。 ようやく実り始めたトウモロコシを鳥たちから守っているのに違いない! そう考えると、この傘のある風景に合点がいったような気がしてきた。農家の人からすれば別に不思議でも何でもない風景かもしれないが、都会育ちの私にとっては、田んぼに日傘はやはり謎である。

考えてみれば、傘は傘であって、傘だけではない。その用途はいくらでもあるはずだ。子供の頃は、チャンバラの剣として使っていたし、ランドセルを担ぐ天秤棒としても使っていた。野球のバットにもなった。傘を開いてアメンボをすくっていた記憶もある。今は、傘と言えば雨傘と日傘、それ以外の用途をまったく思いつかない。ずいぶん頭が固くなってしまったものだ。なるほど、この写真のように「かかし」にもなってしまうものなのだ。本来の機能とはまったく別の機能を見つけ出し、生活の必要を満たしていく、しかもこの傘のように、身近にあるものを使って生活を補い豊かにしていく、そんな工夫が私は大好きだ。

一本の傘を使って、ヒョイッと「かかし」にしてしまう。この写真には、常識や固定観念に囚われない伸びやかな人の心が写っているのかもしれない。そう思うと、何だか嬉しくなってきた。