奥比叡の里より「棚田日詩」 | ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ①

2015/01/25

スズメのように見えるが、アトリやカワラヒワという鳥だそうだ。雪に埋もれた田んぼで、ヨモギの種などをついばんでいるらしく、何百羽と集まっていた。この鳥も警戒心が強く、一定の距離以上に近づくと一斉に飛び去ってしまう。彼らに私の姿を見せながら3時間ほど撮影していると、ようやく「人畜無害」だということを理解してくれたのか、一羽だけ随分近くにまで寄って来てくれた。(下の写真=ハクセキレイ/冬羽)

 healing-bird というブログを出しておられる井坂 瑞さんのご指摘により小鳥の名前等を訂正させてもらいました】

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ①

今日のDiaryは、昨年12月10日の「ちょっと気掛かり」の文章に代わるものです。途中で終わっている「ちょっと気掛かり」を続けていくと、かなりの長文になることが予測されます。いくつかの「気掛かり」があったのですが、一つのテーマに絞り込んでコンパクトにした方が良いと思い、今日の文章になりました。それでも、かなりの長文になりますので、関心のない方は読み飛ばしてください。


 

昨年末のDiaryで「里山イニシアチブ」(IPSI)の基本的な文書の中に「ちょっと気掛かり」なところがある、と書いた。いくつかあるのだが、中でも「里山とは何か?」といった本質的な問題のところで少し引っ掛かっている。その問題を考える前段として、私の子供の頃の自然体験を振り返っておこうと思う。時代は今から50年ほど前に遡る。場所は京都市の中心街。私が小学校1年生から6年生頃までのことである。

京都市内の道路は、碁盤の目のようになっている。市の中心街と言えば、南北に走る烏丸通りと河原町通りに挟まれた四条通り(東西を結ぶ)の辺りである。狭い区域に大丸や高島屋・藤井大丸といった百貨店が三つもあり、日本を代表する銀行や証券会社の支店が並んでいる。祇園祭では、鉾が巡航するメインストリートともなっている。四条通りに平行して走る一本北の道は、京都の台所と呼ばれる錦市場の通りである。野菜・魚・肉といった生鮮三品から京都の伝統的な加工食品まで、ありとあらゆる食べ物屋さんが軒を連ね、威勢のいい客寄せの声が響いている。錦市場は、この辺りの庶民の台所であっただけでなく、京都市の中心街にある旅館やホテル・飲食店のみならず、少し離れた祇園や花見小路辺りのお茶屋さんや飲み屋街の台所ともなっていた。私は、こうした都会の繁華街の中で少年期・青年期を過ごした。

私の家のお隣さんは、円山応挙(江戸時代の日本画家・円山派の祖)の居宅であった。この邸宅は四条通りに面しており、千数百坪はあっただろうと思えるほどの敷地の中にあった。小学生だった私の印象からすると、豪邸というよりもほとんどが庭であった。その庭が、私の家の小さな窓から一望できた。子供の頃の記憶で定かではないが、苔むした庭の中に何十本もの松の木が伸び、その松の間に人の背丈ほどの木々が点在していた。松林の中には、小さな井戸と美しい茶室のようなものがあった。毎年春になると梅か桃のような木が花を咲かせ、その木にやって来るウグイスの声で目覚めてしまうほどだった。夏になると、アゲハ蝶やアオスジアゲハ・カラスアゲハなどが木々の間を優雅に飛び交っているのを飽きもせずに眺めていた。小さな窓から身体半分を乗り出して手を伸ばせば、椎の実やミノムシを採ることができた。しかしこの庭には、一度も入ったことがなかった。手入れが隅々にまで行き届き、どこか凛としていて、子どもが遊んではいけない空間のように感じていた。

当時はまだスーパーマーケットもなく、近所には魚屋さんやお米屋さん、豆腐屋さんや酒屋さんなどといった町の小売店が数多く残っていた。私の町内には魚屋さんがあり、さばいた魚やイカ・たこ・エビ、貝類などを刺身や焼き魚・煮魚にして軒下に並べて売っていた。前を通ると魚臭い臭いと煮付けの美味しそうな匂いが混じりあって、客だけでなく、厄介者の銀蠅なども盛んに集まって来ていた。毎年春になると、その銀蠅を目掛けて何十羽というツバメがやってくる。瓦屋根の軒が連なる狭い道路の上を、地面すれすれに滑空するツバメは本当にカッコ良かった。錦市場などが近所にあることを考えると、恐らく何百羽という単位でこの辺りにやって来ていたのだろう。何軒かの軒下には、泥で固めたお椀型の巣が作られていた。毎年その巣の中で卵を産み、数羽のヒナが親鳥の帰るのを待ちわびてうるさく鳴いていた。そのヒナの糞が落ちてきて玄関前を汚すことになるのだが、誰もツバメを追い払おうとはしない。それどころか、巣を作りやすいように軒下に板を敷いてやったりしていた。秋になると、その年に巣立った子ツバメと一緒に南の空へ帰っていく。そして町内は、少し静かになる。

都会の中心街といっても、生きものたちの自然はある。少し大きな自然、中くらいの自然、小さな自然が都市の片隅に息づいていた。先ずは、大きな自然から見ていこう。

私の小学校の学区内には公園が一つもなかった。その代りというのも変だが、仏光寺(真宗仏光寺派総本山)という大きなお寺があった。その仏光寺の門前には、数軒ほどの小さなお寺が固まってあった。仏光寺には銀杏の大木やモミジの古木、クスノキやサツキなどといった木々があり、周りのお寺の庭にもモミジやサルスベリ、ザクロやビワやシュロ、ナンテンやアオキなどの木々が植えられていた。季節の草花がそれぞれのお寺の庭に咲き乱れるこの辺りは、学区内で最も自然が豊かな所だったのではないだろうか。学区内には川のような水辺も一つもなかった。その代りと言えるほどの規模ではないが、仏光寺やその周りのお寺の小さな池がそれに代わっていたように思われる。毎年トンボたちがその池にやって来て、盛んに卵を産み付け、やがてヤゴとなり、成虫となって飛び立っていく。そんな生態を支える貴重な池だったのではないだろうか。仏光寺近辺は、私たち子供がコオロギやバッタ、セミやトンボ、チョウチョやホウジャク、クモやハチ、カエルやヘビ、コウモリやイタチ、スズメやハトなどと出合い、遊ぶことのできる大切な場所となっていた。

私の通った小学校にも少し大きな自然があった。校門から校舎に行くのに木立の間を抜けていかなければならなかった。記憶をたどれば、桜・モミジ・サルスベリ・ザクロ・アオキ・キンモクセイ・樫の木などの木々があったように思う。その木立の中に、豊臣秀吉が使ったといわれる井戸と二宮金次郎の銅像が建っていた。そうだ、夏ミカンの木もあった。この木の周りにアゲハ蝶が盛んにやって来て、葉っぱの裏側に黄色い卵を産み付けていた。やがて黄緑色の美しい幼虫が現れ出すと、からかい半分に指で突っついてやる。幼虫は怒ってオレンジ色のツノを出す。その時、何とも言えない臭い匂いも一緒に放出する。それが面白くて、また突っついてやる。この木を見ていると、卵から幼虫、さなぎ、成虫とアゲハ蝶の変態の様子を一通り観察することができた。春には桜、夏はサルスベリ、秋になるとキンモクセイの花が咲き、冬を前にしてモミジが紅葉した。キンモクセイの甘い香りに包まれて歩く時、何とも幸せな気持ちになったのを思い出す。6年間、これらの木々の下を通って校舎まで行っていた。これらの木々に、季節の変化というものを教えてもらっていたのかもしれない。応挙の庭園を除けば、仏光寺と小学校。この辺りでは、そして都会の子供たちにとっては、ここが「大自然」であった。

この辺りで「中くらいの自然」といえば、かなり規模は小さくなるが、それぞれの家に作られた庭になる。2~4坪ほどの庭が多いのだが、京町屋独特の中庭などもあり、なかなか興味深い生きものたちの自然があった。変わり者としては、地面の穴の中に住む小さなクモがいた。穴の出入口にはクモの糸で編まれた薄いフェルト布のような材質の丸い蓋が付けられていた。クモが出入りする度にその蓋が上下にパカパカと開いたり閉まったりしていた。その蓋を目を凝らして探すのだが、地面と保護色になっているためになかなか見つからない。見つけたら最後、蓋を引きちぎり、穴の中に木の枝を突っ込んで巣を破壊していた。アリの巣なども、見つけては水攻めをしていた。ダンゴ虫もどこの庭にもいた。丸めて転がしたり、放り投げたりしていた。当時はこれも遊びの一種だったのだろうが、子どもは昆虫などに対して本当に残酷である。

こうした京町屋の庭は、学区内に数多く点在していた。大抵が苔むした庭に手水鉢(ちょうずばち)があり、モミジやナンテン、千両や万両のような赤い実のなる観賞用の木が多く植えられていたように思う。というよりも、正月の飾り付けに使うという実用的な目的で植えられていたのかもしれない。その実を食べに来るのか、冬でも小鳥たちのさえずりが聞こえる庭だという印象が残っている。

もっと「小さな自然」が息づく所もあった。京都は路地(ろうじ)が多い。私がよく遊んだ路地の道には石畳が敷かれていた。敷き詰められた石畳に沿って、その両側に30~40㎝ほどの幅で土の露出した所があった。春になると土のそこかしこから小さな雑草たちが芽吹いてくる。放って置くと、あっという間に雑草で埋め尽くされてしまう。そんなわずかな空間にある雑草たちに、毎年々々シジミチョウが卵を産みつけ、濃紺の可愛い幼虫がその草を食べて巣立っていく。しかしそこは、私たち子供にとってはビー玉遊びの場でもあった。先ずは、3~4mほどにわたって雑草を全部引き抜く。それから土をきれいに均(なら)していく。その土の表面にビー玉が入るくらいの窪みをいくつか開けると、戦闘が開始される。しかしビー玉遊びの度に、草抜きである。抜いても抜いても、次から次へと草は芽吹いてくる。

ここの雑草に水の心配はいらなかった。京都の町はどこでもそうだと思うのだが、朝早くと夕方に自分の家の前の道路を掃除する。どの家もお母さんやおばあちゃんが出てきて、道に落ちているゴミや枯葉、小石などを掃き取っていく。その掃除が終わると、打ち水(冬を除く)である。石畳にまかれた打ち水は、やがて雑草の方にも流れ込む。今思えば、京都市に住む人々の古くからの習慣が、こんな小さな小さな雑草の群落を育て、その雑草に支えられた昆虫や小鳥たちの生命を育んでいたのかもしれない。

以上が、小学3~4年生の頃までの私の身の回りにあった自然である。既に50年を超える時が過ぎている。かすかな記憶を頼りに書いているので、思い違いも少なくないと思う。

奥比叡の里の自然環境と比べれば、水田もなければ雑木林もない。竹林もなければ溜め池もない。小川や山もない。アスファルトに覆われた都会では、土が露出した所の面積比率が極めて小さい。草食・肉食を問わず、大多数の生きものたちの命の土台となっている植物にとっては、厳しい環境にあったといえる。カブト虫やクワガタ、玉虫やホタルは図鑑の中でしか見ることのできない「あこがれ」の昆虫であった。生き物たちの多様性という意味でも、その個体数においても、かなり制限された環境にあったのではないだろうか。

それでも、子どもたちに四季の変化を感じさせ、目の色を変えて虫採りに興じさせるくらいの自然は残されていたようだ。この自然も、小学校の4年生頃から少し変わっていく。殊に四条通りの変化は激しかった。 時は高度経済成長期。1960年(昭和35年)を前後する頃である。京町屋と呼ばれる古い家屋が取り壊され、四条通りがビルの街に変わっていきつつあった。先の円山応挙の邸宅も取り壊され、その跡地に二つの証券会社の見上げるようなビルが目の前に現れた。(続く)

(この続きは次回のDiaryで書かせてもらいます)