奥比叡の里より「棚田日詩」 | 謎の日傘

2012/07/01

謎の日傘

不思議な風景である。花を咲かせているトウモロコシ、手前に並ぶ赤い花、緑の田んぼ、その田んぼの畔にのぞくエダマメ、左手奥に見える村のお墓、スギやヒノキの林、点在する柿の木、これらは意味もなくそこに置かれているものではない。存在する理由を持ってそこに存在している。そこに存在させた人の意志が、比較的分かりやすい風景である。その中で、この日傘は何なのだろうか? 日除けなのだろうか? そうだとすれば、何を日差しから守っているのだろうか? あるいは雨傘かもしれない。だとすれば、何を雨から守っているのだろうか? いずれにしても守られるべきものがここには見当たらない。ある意味、その謎がシャッターを切らせたと言ってもいい写真である。

20年ぶりにこの写真を眺めていると、突然あることを思い出してしまった。わが家の愛犬が、異常に傘を怖がっていたことを・・・・・ そうだ! この傘は鳥たちを脅かすためにそこにおかれたのに違いない。これは「かかし」なのだ。 ようやく実り始めたトウモロコシを鳥たちから守っているのに違いない! そう考えると、この傘のある風景に合点がいったような気がしてきた。農家の人からすれば別に不思議でも何でもない風景かもしれないが、都会育ちの私にとっては、田んぼに日傘はやはり謎である。

考えてみれば、傘は傘であって、傘だけではない。その用途はいくらでもあるはずだ。子供の頃は、チャンバラの剣として使っていたし、ランドセルを担ぐ天秤棒としても使っていた。野球のバットにもなった。傘を開いてアメンボをすくっていた記憶もある。今は、傘と言えば雨傘と日傘、それ以外の用途をまったく思いつかない。ずいぶん頭が固くなってしまったものだ。なるほど、この写真のように「かかし」にもなってしまうものなのだ。本来の機能とはまったく別の機能を見つけ出し、生活の必要を満たしていく、しかもこの傘のように、身近にあるものを使って生活を補い豊かにしていく、そんな工夫が私は大好きだ。

一本の傘を使って、ヒョイッと「かかし」にしてしまう。この写真には、常識や固定観念に囚われない伸びやかな人の心が写っているのかもしれない。そう思うと、何だか嬉しくなってきた。