奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2013 | 8月

2013/08/25

残暑御見舞

お盆も過ぎて、棚田はすっかり黄色に染まってきた。まだ夏雲の空に蝉の声が威勢よく響いているが、足元に耳を澄ませば、秋の虫の音が草むらから優しく聞こえてくる。

それにしても今年は、記録的、観測史上初などという形容詞が付くほどの猛暑だった。昼間の私は、コンクリートとアスファルトに囲まれた京都市で働いている。盆地のせいか本当に暑い。そして蒸す。車の温度計を見ても、38℃を越している時がある。京都から滋賀の仰木に帰ってくると、心なしか涼しく感じ、ホッとする。たぶん琵琶湖という大きな水瓶があるのと、水田や雑木林などの緑も多く、土そのものがアスファルトに覆われていないからではないかと思っている。滋賀の穏やかな自然環境に感謝である。

今日の写真は、時間と共に変わる光の色の変化をお楽しみいただこうと思った。上の2枚は、たぶんお昼から3時頃までに撮影したものである。光は透明である。下の2枚は、夕方のものである。この時間特有の黄色味を帯びた光が美しかった。振り向けば夕立の去った琵琶湖の上に虹が輝いていた。

週末、ようやく雨が降ってくれました。一息つけたといった感じです。それでも気象庁によると、週明けからまたまた猛暑が戻ってくるようです。皆様、くれぐれも熱中症などに気を付けて、お身体ご自愛ください。

2013/08/18

どうしよう

棚田と出会った時、まずはロケハンだと思った。ロケハンとは、元はと言えば映画業界のロケーション・ハンティングの略語。広い意味では、撮影に先立っての現地調査とでも言えばいいのだろうか。どこにどんな道があって、どこに続いているのか?  あるいは行きどまっているのか?  気になる棚田や農家、ハサ木や柿の木、溜め池や川がどこにあって、四季を通じてどんな姿を見せてくれるのか?   1990年から93年あたりの4年間ほどは、撮影していてもそんな下見調査的な意識の方が強かった。南の坂本辺りから北の栗原辺りまで、南北15㎞・東西5㎞ほどにわたって棚田や雑木林が連なっているのだが、ほとんど全ての農道・林道を車で走り、自分の足で丹念に歩いた。恐らくこの期間、この地域にある田んぼで、私が見落とした田んぼは一枚もなかったはずだ。

それにしても農道は狭い。棚田の中の農道のほとんどは、軽トラック一台がようやく通れるような道巾しかなかった。時折脱輪する。さぁ、大変である!  一時間ほどは自力脱出を試みるが抜け出せない。いよいよJAFのお世話になる時である。これがまた、一苦労である。当時は携帯電話というものを持っておらず、村のお店や農家に駆け込んで電話をお借りする。山の上の方の農道で脱輪した時は、下の村まで駆け下りていくということもあった。ようやくJAFと連絡が取れても、今度は脱輪した場所の説明ができない。棚田の中には、細かい地名がないからだ。都会のように目立ったお店やポストやタバコ屋さんもない。「そこを右に曲がって、左に折れて・・・・・」と、説明のしようがないのである。仕方がないので、村の入り口辺りでの待ち合わせとなる。こうしてJAFの皆さんには、何度も救っていただくこととなった。それでも1995年以降は、JAFのお世話になっていないのではないかと思う。この時期の痛い学習が効いているのだろう。私のロケハンには、こうしたエピソードも含まれている。

 

先ほど、棚田の中には細かな地名がないと書いた。しかし全く地名がないかと言えばそうではない。村人たちの間にだけ通用している地名がある。一番上の写真の所にもちゃんとした地名が付けられている。その名は「どうしよう」である。ここは棚田を築こうとしても、何度も何度も土手が崩れてくる。そこで村人たちは「どうしよう」となったらしい。今でこそ写真右側の土手は、コンクリートという現代技術で厚く固められている。粗末な道具しかなかった時代、ここに棚田を築こうとした先人たちの思案と苦労が余計に偲ばれる。

「どうしよう」のすぐ近くにもう一つユニークな地名が付けられた所がある。その名を「くずれ」という。ここ数年、この「くずれ」の所で道路工事が進んでいる。

伊香立から日吉の西教寺に抜ける農道(私はこの道を「奥比叡棚田街道」と自分勝手に呼んできた)の工事である。元々「くずれ」は、小高い丘の斜面に棚田が積み重ねられていた所だった。その丘の真ん中をV字型に削り取って、その底に農道を通そうという工事である。当然農道の両側面はV字の斜面となっている。いくつかの工法が試みられているようだが、その都度、斜面が「崩れ」てくる。中々の難所である。道路全体の設計上、この「くずれ」を避けて通れなかったのかもしれない。あるいは、経済的合理性などがあったのかもしれない。この地を「くずれ」と名付けた先人たちは、この事態をどんな思いで見ているのだろうか?

 


 

今回は丁度「お盆」の直後。御先祖様を偲ぶという意味でこのテーマにさせてもらいました。

3・11の大地震と大津波の恐ろしい光景は、今も昨日のことのように私たちの脳裏に焼き付いています。そしてその後も、日本列島の揺れは一向に収まる様子がありません。東南海の巨大地震も想定されています。都市開発や道路建設などに先立って、御先祖様の地名などに託した思いに耳を傾けてみるのも地震対策や防災対策の一つだと思っています。そうした御先祖様の思い・願いは、様々な形をとって全国各地に残されているのではないでしょうか?

2013/08/14

ふるさと

結婚して8年間、 私たち夫婦には子どもができなかった。様々な努力を試みたが、そろそろ子どもは諦めて何か老後のための趣味を持たなければ!と始めたのが写真だった。その時35才、生まれて初めて買う一眼レフカメラだった。不思議なもので、すっかり諦めていた子どもをその3年後に授かることとなった。息子であった。彼が1才になる時、「もう少し自然の多い所に」ということで引っ越してきたのが「仰木の里」という新しい住宅地だった。その新興住宅地を取り囲むように滋賀県最大の棚田が広がっていた。いくつかの偶然が重なったとはいえ、子どもが私にカメラを持たせ、私をここに連れてきてくれたのだと思っている。

写真をやり始めた当時は、典型的なサンデーカメラマンだった。日曜日になると、カミさんと愛機のカメラを連れ出して京都方面へのドライブに出掛けたものだった。実際、“謙遜”というものが入る余地がないほどヘタクソだった。だからNHKのカルチャー教室(浅野喜市先生)にも通った。その浅野先生が顧問をされていたNACという写真クラブにも所属した。それでも自分の才能の無さは、そうしたことで補うことはできなかった。

美しい風景を見る→感動する→シャッターを押す、といった具合に写真を撮るのだが、その写真に感動が写っていない。自分でも何を撮ろうとしていたのか分からない、どうして撮ったのかすら理解できない、そんな写真がゴミ箱の中に次から次へと捨てられていく。それでも500枚、1000枚という単位で見ると1枚くらいは「オッ」と思えるような写真が撮れていることがある。いくら才能が無くても、時折奇跡のような「オッ」が写っているので写真が止められない。そして新しいフィルム、新しいカメラ、新しいレンズを買いに走る日々が続く。写真という趣味は、まことに厄介なものである。

カメラの周りには360度風景が広がっている。その風景の中から、四角いフレームでどこを切り取るのか? その四角いフレームの中に存在する様々な要素を、どのように気持ちよく配置するのか?  要するに、画面の構成力というか、構図力というか、そこのところに才能がなく、ヘタクソなんだと当時は思っていたし、実際にそのことで四苦八苦していた。丁度その頃に、奥比叡の棚田と出会うこととなった。

構図のお勉強という意味では、下の写真の棚田には本当にお世話になった。春・夏・秋・冬、何十回この場所に立っただろうか?  そして何百枚の写真を捨ててきただろうか?  失敗と反省の繰り返しの中で、ようやくたどり着いた構図がこの写真である。今から20年程前、奥比叡の棚田と出会って3年目の頃だった。この棚田の他にも、柿の木や農家など、気に入る構図の写真ができるまで徹底的に撮らせてもらった風景が数か所あった。

そうした撮影(失敗と反省)を続けていると、いつからとは言えないが、ある頃から突然、カメラを構えたところが自分にとっての気持ちのいい構図になっていた。何度も転びながら練習を続けていると、ある日突然自転車に乗れるようになる。そんな感覚に近いのかもしれない。なるほど構図力というものは自転車と同じで、失敗の繰り返しの中で獲得する平衡感覚であり、パランス感覚なのだと思った。もっとも構図力などといっても、そのレベルはピンからキリまである。神の領域ではないかと思えるような構図力を持った人もいる。私の場合、ようやくキリの立場に辿り着いたといった感じだった。

振り返ればおよそ9年間ほどの長きにわたって、構図に自信が持てず、カメラを構える度にあれこれと悩んでいたことになる。よく写真を続けてこれたものだと思う。もし奥比叡の棚田との出会いがなかったのなら、ずっと前に写真を諦めていたかもしれない。

私には3つの「ふるさと」がある。

一つ目のふるさとは、私の生まれ故郷となった長野県上田市である。私の父親の実家は、長野県の篠ノ井という所にある。上田市は父親の職場のあった所であり、私はここで4才までお世話になっている。しかし残念なことに、ほとんど記憶が残っていない「ふるさと」である。

二つ目は、私の少年期・青年期(4才~22才)を過ごした京都市である。今の私の問題意識や価値観、世界観や人格といったもののすべての原点が、京都で過ごした少年期・青年期にあると思っている。私がどんなことに感動し、何に興味を惹かれてカメラを向けるのかは、その根底にこの少年期・青年期がある。

三つ目のふるさとが、40才の時に出会うこととなった「奥比叡の里」である。私はここで、我流ではあるが「写真」というものについて学ばせてもらった。これまで何十万回シャッターを押してきたのか分からないが、恐らく95%以上がこの地の農村風景であった。僅かではあるが、旅行先の写真、結婚式やお葬式の写真、音楽ライブやミュージカルの舞台写真なども撮らせてもらってきたが、それらは全て「田んぼ写真」の腕を上げるためであった。

 

(以前にも書かせてもらいましたが、文章を書き始めて3時間が経過すると、 一端その文章は中断させていただきます。これはこのホームページを始める時に決めた私の勝手なルールです。私はこのホームページとは全く無縁の別の仕事を本業としています。そうしたルールを設けておかないと、本業との境界がルーズなものになってしまう恐れがあるからです。勝手なルールで申し訳ないのですが、この文章は後日、時間のある時に完結させていただきます。お許しください)

2013/08/11

お詫び

今週の更新は、仕事の都合もあって14日の水曜日とさせていただきます。お詫び申し上げます。

*  写真は上仰木から望む琵琶湖と三上山(近江富士)です

2013/08/04

心冷写真

今年は、例年の太平洋高気圧に加えてチベット高気圧が日本列島の上空に張り出し・・・・・云々と、私にはさっぱり分からないが、やっかいな天気のようだ。先週は、山口や鳥取、島根といった中国地方、新潟などの中越地方の日本海側で観測史上例を見ない集中豪雨が襲った。被害の爪痕は深く、連日緊迫した様子がテレビに映し出されていた。ここ奥比叡の里では、時折雨を交えた曇り日が続いてきた。それでも気温は30℃を超し、何もしなくても身体にベトつくような汗が湿度の高さを物語っていた。

今棚田では、稲の穂が成長しているだけでなく、ヒエなどの雑草も勢いよく伸びて目立つようになっている。これからの収穫までの一月ほど、この雑草取りで一汗も二汗も流さなければならない。茂った稲の根元にまで顔をうずめて一本一本丁寧に刈り取っていく。見ているだけの私の方が熱中症になりそうな作業である。

気象庁によると、8月は酷暑の夏になるそうです。暑い暑い夏に先駆けて、今日の写真は雪景色にしてみました。皆様の心の中の温度を少しでも下げることができれば嬉しく思います。