奥比叡の里より「棚田日詩」 | 2012 | 5月

2012/05/27

もったいない

あわれザリガニ。恐らく白サギの朝食の食べ残しなのだろう。しかしこのカニツメは、そのままここに残されることはない。この後、カラスなどが固い殻を割って中身を食べてしまうのに違いない。更に微細な肉片や膜は、昆虫や微生物などによって消化され分解されてしまうはずだ。春から夏にかけての棚田の道端には、真っ白になったカニツメの殻だけがそこかしこに散乱している。それもやがては田んぼの土に同化していくのだろう。里山では、一つの命の終わりが、数多くの他の命を支え、育んでいく。それを生態系と呼ぶのか? 命の循環システムとでも呼べばいいのか私には分からないが、命の連鎖は見事という他ない。ここには無駄に捨てられる命はない。ちなみにザリガニは、脱皮した抜け殻も捨てることなく、自分自身で食べてしまう。その様子を息子が飼っていたザリガニが見せてくれた時には、感動ともつかない不思議な気持ちでじっと見入っていたのを思い出す。

   他方、わが国(H20年)の「食べられるのに捨てられる食品」が500~900万トンある。実に20トンクラスの大型トレーラー25~45万台分が焼却されるか、埋め立てられている。これをお米だけに換算してみると、2008年の生産量が約880万トンだから、ほぼ全量捨てていることになる。実際、この数字の大きさには驚かされる。しかし、自然には無駄がなく、社会には無駄が多いと言ってみたところでこの無駄がなくなるわけではない。自然には自然の、社会には社会の論理がある。社会の問題は、社会の中に問題の本質を求め、それに従って解決の方策も見出されていかなければならない。この食品ロスの問題も同様である。

・・・・・続く

2012/05/20

琵琶湖対岸の近江富士を望むこの棚田は、規模は小さいが私のお気に入りの田んぼの一つである。この日はあいにくの曇り空で朝陽をあきらめていたが、太陽が束の間のエンターテイメントを演じてくれた。この田んぼも2年前からイノシシやシカの獣害対策用の電気柵が張り巡らされるようになった。小さな田んぼでも20万円ほど掛かってしまうそうだ。採算が合うのか? 他人事ながら心配になってくる。しかし考えてみれば、戦後の棚田農業は“採算という合理”の外で続けられてきたのかもしれない。

農業音痴の棚田日詩

田んぼの写真ばかりを撮っていると、農業についても何がしかの知識や考えを持っているのではないかと誤解されることがあります。それは、とんでもない勘違いだといわなければなりません!! 私は「奥比叡の里」と出会う40歳まで完全な農業無関心派でした。

それまで田んぼとは縁のない都会の暮らしが続いていました。唯一田んぼと関係する事柄といえば、小学生の夏休みに親父の実家がある信州で田んぼの草取りをさせられたことくらいです。腰が痛くなって、もうコリゴリだといった印象が今も懐かしく残っています。私にとっての農業といえば、電車の車窓を流れる田園風景以上でも以下でもありませんでした。しいて言えば、田舎・野暮・臭い・きついといったむしろ負のイメージだけがあったように思います。

  しかし奥比叡の棚田との出会いは、40歳の私にカルチャーショックを与え、そうしたイメージを一変させてくれました。優美な曲線を描く小さな田んぼが大きな谷の両側にびっしりと積み重ねられている風景と出会った時には、「スゲェ! スゲェ!」と何度も声が出ていたのを思い出します。今まで見たこともない美しい風景、一目惚れでした。恋は恐ろしいもので、以来ここにある農村風景のすべてが新鮮に見えるようになり、撮影の合間に聞くおじいちゃんやおばあちゃんの話は、その見える風景をいっそう面白くしてくれました。それまで不快だった田舎の匂いも、何ともいえない安らぎの香りに思えてくるから、恋は本当に不思議です。

  農業無関心派の私が、奥比叡の棚田と出会ってから農業や農村というものにどのような思いを持つようになったのか? 1992~1995年にかけて地元の滋賀や京都、大阪の十数か所で写真展を開きました。当時の案内文には次のように書かれていました。

「・・・棚田は、単に田んぼが一枚一枚積み重ねられたものではない。幾十世代にもわたるお百姓さんたちが流してきた汗と豊かな稔りを願う知恵、そして自然と祖先への深い感謝、子どもや孫子の世代の幸せを願う祈りが積み重ねられたものである。それが単なる自然ではないこの美しい風景を作り出してきた」

「・・・ここは日本人の幾十世代にもわたる『食べる』を支えてきた農業空間であり、その風景である。農村と都市が分離し、農業に携わらない人々がどんなに多くなったとしても、こうした農業空間が都市の人々の『食べる』を、そして命をも支えてきたことは、今も昔も変わらない。都会育ちの私の命もまた、こうした農風景、農空間に支えられてあった。そう思うと、この風景が、この空間が何とも“いとおしく”なってくる」

「・・・わが国は、ほんの数世代前まで農業の国であった。・・・ここにはまだ機械力も化学もなく、人が素手で自然と格闘していた時代、その時代の人と自然の共存の風景が残されている。穏やかな自然、人の暮らしと温もりが感じられる風景、私はその風景を美しいと思う。・・・京都の有名寺院が歴史的・文化的遺産だとすれば、千年以上の歴史を持つこの棚田もまたわれわれが誇りうる立派な歴史的・文化的遺産である」

こうした思いは、奥比叡の棚田と出会ってから今日まで何も変わっていません。もしこうした思いがなければ、この23年という歳月、田んぼの写真を撮り続けることはできなかったかも知れません。しかし、田んぼの写真を撮っているからといって、田んぼのことをよく知っているということではありません。私には、農業についての系統的・専門的な知識などありません。またそれを学んだという経験もありません。むしろ、自然についても、農業についても、ネットの向こうにおられる皆様方に教えていただきながらこのホームページを進めていければいいなと思っています。

私は都会育ちの農業音痴です。私に「農業」についての難しい質問は、絶対にしないでください!

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自己紹介といった意味で私の自然観、農業観といったものの一端を書かせてもらいました。しかしそうしたものを直接的に表現しよう思ってシャッターを押してきたわけではありません。私にとってそれらは、写すべきものではなく、数千枚、数万枚、数十万枚という写真の中に自然に映っていなければならないものだと考えてきたからです。私の写真は、その時々に単純に「美しい」と思う心を写してきただけです。お気軽に、お楽しみください。


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次回から「です」「ます」調の文体から、「である」調の文体に変えさせていただきます。「です」「ます」調は、丁寧な感じはするのですが、書いていてどうも肩が凝ってしまいます。別に急に生意気になったわけではありません。ご了承下さい。私はこれまで「文章を書く」ということについては、ほとんど無縁の生活を送ってきました。高校卒業時の「国語」の成績も(1)。最も苦手な分野です。六十の手習いではありませんが、ある意味、このホームページの中でどんどん文章を書いていくことを通じて勉強させてもらおうと思っています。自分自身のための文章です。ヘタクソな文章を書くと思います。文章は飛ばして、写真だけ見ていただければ結構です。宜しくお願いいたします。

2012/05/13

タンポポの綿毛とキンポウゲ、春の棚田の定番である。こんな可愛い写真も、撮影となるとけっこう命懸け?だ。風が吹いているため、絶えずキンポウゲがフレームアウトしてしまう。タンポポのヘリコプターもなかなか思うところに飛んでくれない。三脚を使える写真ではない。シャッターチャンスを待って、ひたすら重いカメラを構え続ける。ブレないように! ブレないように! 自然に息が止まっている。息が詰まって顔が真っ赤になっているはずだ。苦しい!  た・助けてくれ~~~!!

自然音痴の棚田日詩

皆さ~~~ん!

      皆さんは、稲穂に可愛い花が咲くことをご存知でしたか?

      ドングリがどんな木にできるのかご存知でしたか?

      柿の木に白く可憐な花が咲くことを知っていましたか?

私は知らなかったのです!! 奥比叡の里と出会うまでは・・・

その時40歳、私にとっては小さな感動でした。お米にせよ柿にせよ、それまでスーパーなどで売られている商品以上のものを想像することはなかったのです。しかしよくよく考えてみれば、知らなかったというのは正確でないのかもしれません。一般的な植物は、花が咲き、その花の中の雄しべと雌しべが受粉して実=種ができるということは、学校で習って知識としては知っていたはずです。その知識が、目の前にある現実の稲穂や柿の木と結びつかなかっただけのことなのでしょう。私は少年期・青年期を京都市の中心街、大丸を遊び場として育ちました。そのせいか、稲の花や柿の花を目撃するという体験がなかったのも事実です。自然体験の乏しさは自認するところです。

 

ところが、私のような写真を撮っていると「自然の生き物」については、相当詳しく知っているのではないかと勘違いされる方がおられます。とんでもない誤解です。私は自分の撮っている草や虫の名前すら知りません。たいていは撮影後に図鑑で調べてはじめて名前を知るという段取りです。しかも覚えた途端に忘れていくため、同じ動植物を何度も何度も図鑑で調べなければならないというハメに陥ってきました。最近は面倒くさくなって、調べることすらアキラメテしまいました。私は正真正銘の自然音痴です。

  生き物たちに対する知識が乏しいだけでなく、ある種の生き物に対しては嫌悪や恐怖すら感じてしまいます。ヘビ・クモ・蛾・蜂・ムカデ・ゴキブリ・ナメクジなどは、近寄るだけで気持ちが悪く、恐ろしくなってきます。怪しげな?草むらに入る時は、長靴は必需品。効果のほどは定かではありませんが、できるだけ大きな声で歌を唄うか、大きな足踏みをして、彼らを先に逃がすようにしています。ただ23年も田んぼの写真を撮っていると、最近は彼らとも少し仲良くなれてきたのかなと思います。

  東京の銀座や六本木と尾瀬の湿原、どちらに行きたいですか?と問われれば、何の躊躇もなく尾瀬を選ぶでしょう。私の自然に対する無知、ある種の生き物に対する嫌悪感、それらがイコール自然嫌いということではないようです。南米のアマゾン奥地やギアナ高地に行ってみるかと問われれば、生きて帰れる自信は全くありません。私にとってそこは神の領域であり、私の日常生活とは異次元の別世界として存在しています。どうやら、私にとっての自然は、ある種の心地よさと共に危険と恐怖の感情、更には畏敬の念を抱かせるものとしてあるようです。
  もし自然に《大・中・小》《上・中・下》というものがあるとすれば、家の庭にある自然は小自然の下。人の生活を拒む極地やアマゾンの奥地の自然は大自然の上。とすれば、「奥比叡の里」の自然は、恐らく「中自然の下」といったところでしょうか。この「中自然の下」の自然こそ、都会育ちの私がかろうじて許容できる自然ではなかったかと思っています。ある意味、里山の代表格である農空間は、私のような自然ビギナーの入り口となる素晴らしい所なのかもしれません。

  私には、自然の生き物たちを科学的探究心で見るという習慣がありません。またそうした視点で見なければならない生活の必然もありません。それでも、朝陽に輝くクモの巣や菜の花の間を忙しく飛び交うモンシロチョウは美しいと感じるし、人の気配に逃げ惑うヘビや耳元でブンブン羽音を立てて威嚇するクマバチなどはイジラシクさえ思えてきます。硬い樹皮を割って出てくる桜の蕾には拍手を送りたい気持ちになります。私の写真は、そんな気持ち(感情や情緒)を写してきたものです。ファインダーの中で私と彼らを結び付けているのは、生態に対する科学的知識でもなく、お百姓さんが持つ利害でもなく、第三者的な単純な感動や心のざわめきであり、ある種の美意識というものです。

  ただそのベースには、同じ生き物としての共感があるように思います。一つの生命がこの地球上に誕生して40億年。その一つの生命から、長い長い生命の系譜の先に私たち人間もいます。弱肉強食の厳しい掟の下でしか生きていけない自然界にあって、しかも生物絶滅の危機を何度も何度も乗り越えてきた生命。過酷な環境の変化にも巧みに機能と形を変えながら無数の種を発展させてきた生命。互いの姿形は大きく異なってしまったけれど、40億年という途方もない時を背負って今ここで出会う不思議、奇跡、その感動と共感が私と彼らとの間をつないでいます。

そんなことをいつもいつも考えて写真を撮るわけではありませんが、そうした気持ちがベースにあるから、飽きもせずに彼らを撮ってこれたのかもしれません。

   最後にもう一度お断りしておきます。私は自然音痴です。私に「自然」についての難しい質問は、絶対にしないでください!!

2012/05/06

奥比叡の棚田農業は、就農者の高齢化や後継者の不足によって年々厳しさを増しているようだ。それと歩調を合わせるかのように、この里山を彩ってきた柿の木やクヌギ、赤く錆びついたトタン屋根の農具小屋が、毎年一つ一つと消えていく。この写真は、若葉に萌える柿の木と農具小屋が主役。私の写真には無くてはならない名優たちである。突然、太陽の彼方からこちらに向かって飛んでくる小さな鳥影が一つ。この里に"希望"を運んでくる鳥のように思えた。

はじめまして

奥比叡の里、かつてこの辺りには「鎧田(よろいだ)」と呼ばれる棚田がありました。谷の斜面に沿って細長く小さな田んぼが幾重にも積み重ねられていたと、おじいさんたちは懐かしげに語ります。それが鎧の帷子(かたびら)のように見えたのでしょう。あまりの田んぼの細長さに、耕作牛が回りきれなかったという笑い話が残されているほどです。

圃場整備が随分進んだとはいえ、ここには美しい曲線で区切られた昔ながらの棚田が残されています。その昔ながらの田んぼで、美味しいお米が今も作られています。

春、山の栄養をいただいた湧き水は、ため池に蓄えられ、小川と合流し、迷路のような水路を伝ってやがてすべての棚田を潤していきます。この湧き水は、その小さな旅路の中で里山の数知れない生き物たちの生命(いのち)を育み、秋には黄金の稲穂を実らせてくれます。

田んぼの土塊(つちくれ)は、おじいさん・おばあさん、そのずっとずっと前のおじいさん・おばあさんからの汗と祈りが染み込んだ贈り物。欲張ってはいけない。美味しいお米を作るには、《土塊の力》以上の収穫を求めないことが大切。少ない収量の中でも、昨日よりも今日、今日よりも明日、少しでも美味しいお米を食べてもらいたいと願うお百姓さんたちがいます。雨の日も風の日も、朝早くから日が暮れるまで何度も何度も田んぼに足を運びます。跡継ぎもいない厳しい農業環境とはいえ、いつも稲と対話をしながら、米作りに情熱を傾けるお百姓さんたちが今日も頑張っています。

奥比叡の山々の湧き水と先祖伝来の土塊で育つお米。そんなお米を少しでも多くの人たちに知っていただきたくて、このホームページを立ち上げてみることにしました。これから見ていただく私の田んぼ写真は、そうしたお米が育つ環境を写したものだともいえます。このホームページが、少しでも「仰木棚田米」の応援歌になれれば、本当に嬉しく思います。

————————————————————————————————–ちょっと自己紹介

私、「山田かかし」と申します。

人生も少しくたびれてきたかなと思われる年齢不詳のアマチュアカメラマンです。「山田かかし」というフザケタ?名前は、もちろんペンネームならぬフォトネームです。良からぬ事を企てて、本名を隠しているというわけではありません。本名は大田修と申します。写真とはまったく別の仕事をしてきました。なぜ、フォトネームを使っているかというと、深い意味はなく軽いお遊びだとご理解ください。奥比叡の棚田と出会って23年、田んぼの移り変わりを静かに見つめてきました。そうした意味では、「山田かかし」という名はなかなか言い得て妙だと思っています。

 

 この間、淡々というか、コツコツというか、ボチボチというか、とりあえず棚田の写真を撮らせてもらってきました。撮影を始めて3年目に地元の滋賀・京都・大阪などで写真展をした以外、ほとんどの写真が誰の目にも触れず、ダンボール箱の中で、そしてパソコンの中で眠ってきました。というよりも、撮影した私自身にも忘れ去られている未整理の写真(大部分が失敗作)が大量に溜まってしまって困っているというだけの話しです。このホームページをきっかけに、そうした写真をもう一度見直し、整理しなければ!と自信もなく弱気に思っています。

 写真は、社会と結びつく(見ていただく)ことによって良かれ悪しかれ何がしかの意味を持つようになると常々思ってきました。人生の晩年にさしかかり、長年撮影させていただいた御礼方々、私の写真が少しでも村のお役に立てないかと思っています。

 

このホームページも、淡々というか、コツコツというか、ボチボチというか、私のスタイルで進めさせていただきます。時折、覗いていただければ嬉しく思います。

 

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仰木町をはじめ、快く写真を撮らせていただいた伊香立、坂本、千野、雄琴、真野、栗原といった村の方々には、心から感謝し、厚く御礼申し上げます。また農作業中にもかかわらず、撮影でお邪魔をしてしまったこともあろうかと思います。この場を借りてお詫び申し上げます。

それぞれの村の方々が大切に守り通してこられた田んぼや家々の写真なども無断で掲載させていただくことになると思います。お許しいただきたいと思います。また、人物写真については、最大限ご本人に了解をいただいた上で掲載させていただくつもりですが、無断での掲載もないとは言えません。その節は、何卒ご海容いただきたくお願い申し上げます。

この23年間、本当にありがとうございました。そして、これからの撮影もお許しいただきたく、よろしくお願い申し上げます。