奥比叡の里より「棚田日詩」 | DIARY

2022/01/01

明けましておめでとうございます

新雪によって薄化粧された棚田が目の前に広がっていた。あまり雪の降らないこの辺りでは、もうそれだけで特別な一日の始まりとなる。もっともそうした感慨は、子供たちとカメラを持つ者に限られるのかも知れないが・・・

雑草に覆われた耕作放棄地のような所を歩いていると、突然小さな小さな野菜畑が現れた。ネギが育てられているのだろうか?  自然の山へと戻りつつある棚田の中にあって、その一角に人の意志が明確に描かれていた。なぜか分からないが少し心が嬉しくなった。

今年もコロナ禍のお正月となりました。次から次への変異株の発生もあって、パンデミックの世界的な収束はまだ少し先になりそうです。個人的に言えば、今しばらく「コロナにウツラナイ、ウツサナイ」という観点で生活していきたいと思っています。それでも、どんなに注意していてもウツッテシマウのがコロナなのかもしれません。更なるご用心!  ご用心!!

こうした時だからこそ、皆様のご健康とご多幸をなお一層強く願わずにはおれません。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

2021/12/31

いい写真・・・那和さんの写したもの

田植えを待つばかりの田んぼ。みんな素足になって膝下まで田んぼの泥に埋もれている。その足元には、稲を等間隔に手植えしていくための回転式田植え枠が置かれている。そして色鮮やかでオシャレな野良着?  若い男女の踊っているかのように見える楽し気なポーズ。その手には、これから植えられていく稲の赤ちゃんが一塊り。笑顔がとても素敵です。

一見現代的な農業写真のようにも見えるが、違和感もある。一つは、ここ奥比叡のような中山間地の棚田にあっても、今日の田植えはコンバインで行われている。にもかかわらず、この写真では手植えである。もう一つは、足元の田植え枠である。これは、稲を真っ直ぐ・等間隔に植えるため(正条植え)の見当を付けていく道具である。明治20年(1887年)頃から使われ始め、田植えが機械化される1965年辺りまでの約80年間ほど現役で働いていたそうだ。これによって、肥料やりや雑草採りが随分合理的になったと言われている。歴史の中に消えてしまった道具が、何故かいま持ち出されている。

この一枚の写真の中には、現代と半世紀以上も前の過去が混在している。ここで現代と過去の遺物を結び付けているのは、棚田オーナー制ある。棚田オーナー制というものがなければ、この田んぼもトラクターで田植えされていただろうし、田植え枠もここに存在することがなかった。このお二人もここに居られることはなかっただろうし、この写真そのものも成立していない。そのオーナー制の田植え作業を撮影させていただいたのが、この写真である。2013年5月、撮影者は那和順一さん

ではなぜ「棚田オーナー制」というものが全国の中山間地で展開されるようになって来たのか?    おじいちゃんとおばあちゃんだけの農業。手間と労苦の割に収益性の低い農業。跡継ぎのいない農業等々。棚田オーナー制を生み出す前提としてこうした現代の中山間地農業の危機があるのではないのだろうか。よく見ればこの写真は、そんなことも語っているように思えてならない。

この写真は、「農業写真」ではない。田植えという農作業を写したものだから、農業写真と言えなくもないが、私は少しチガウと考えている。経済学的な意味での農業は、米(農作物)を売る(交換)ことを目的に作物を育成する業である。この写真は、決してその姿を写したものではない。棚田オーナー制は、都会の人たちに農業や里山環境の一部を体験し、学習していただくことを目的の一つとして開催されている。ある意味、都会の人たちを対象としたリクレーションの開催だともいえる。そうした意味でこの写真は、第三次産業である商業/サービス業の一瞬を写したものであると思っている。(だから私は、2013年5月23日のタイトルを「田植え」ではなくLa・ La・ La ♪ Ta・u・eとした)

恐らく日本の長い農業の歴史の中で、農業がサービス業となることはなかったと思っている。この写真は、正に農業がサービス業に転化しているところを写したものである。現代の中山間地農業の複雑な現況が、美しく、楽しく、象徴的に写し出されている。私がこれまで「いい写真」と考えてきた基準の一つに「時代と社会が象徴的に映し出されている」というのがある。まぎれもなくこの写真は、その類の写真だと考えている。

カメラマン那和さんに、そして那和さんの傑作に、終わらない拍手を送ります!!

那和さんは、大きな病院の料理長をされるかたわら、写真を何よりも愛するアマチュアカメラマンでした。私とは仕事の関係もあって、商品開発などもお願いしていました。当然、長い写友であり、私に琵琶湖の写真を撮るように導いてくれたのも那和さんでした。

その那和さんが、まだ暑い盛りの8月23日、心臓の病で突然亡くなられました。享年68才。丁度その頃、今森光彦さんの写真展に一緒に見に行く約束をしていました。どんなに楽しみにされていたか! 電話越しにも分かりました。でもその写真展に那和さんが来ることはありませんでした。来年3月の退職後には、一緒に写真を撮りに行こうとも言っていました。早すぎます!  残念です!!

今日は、那和さんの傑作を今一度見ていただきたいとの思いで、この文章を書いています。そして那和さんの写真が、一人でも多くの人々の記憶の中に残っていってくれることを願って止みません。

那和さん、もしあの世とやらがあるのなら、また一緒に写真を撮りましょう!!

    *  この地の棚田オーナー制は、平尾 里山・棚田守り人の会の主催によるものです

 *  モデルとなっていただいたお二人には、那和さんに代わって心からの御礼を申し上げます

 *  同じ写真をFacebookでも使わせてもらっています

追記)  この小さな写真では分かりづらいが、背景にある木立の前の辺りをじっくり見ていただくと金網のようなものが見える。シカやイノシシから田んぼを守るための獣害対策用の金網である。こんな所にも人と自然との関係、その時代と社会が写っている。見ようによっては、金網の中での楽し気な農作業というシチュエーションが、この絵のスゴ味を一層増しているのかも知れない。

2021/11/28

秋の光の中で・・・

晩秋の頼りなげで儚げな光に誘われてシャッターを切った。農村のどこにでもあるような一隅。生命あるものたちが温もりと輝きを与えてくれていた。

2021/10/30

腰痛悪化のため・・・

この20年ほど持病となっている腰痛が、この夏から悪化してしまいました。殊に10月は歩くのも辛くなり、田んぼへ出ることができなくなりました。年末の仕事が控えているため今年は無理ですが、来年は手術を覚悟しています。

近況報告のみということで、10月のdiaryはこれで終わらせていただきます。

2021/09/26

2021 新米入荷!

日が沈むのも早いもので、6時を過ぎると辺りは暗くなってくる。初秋の気配がそこかしこに感じられる今日この頃である。

夕方の5時になると、わが家の炊飯器のスィッチが入る。やがて炊飯器の湯気の中からお米の香りが立ち昇ってくる。日本人の誰もが知っている、懐かしくも心休まる香りである。

熱湯の対流と水蒸気の圧力によってお米は柔らかくほぐされ、しばらく蒸されてやがてご飯になる。炊飯器のふたを開けると、熱い湯気が例の香りとともに顔を包み込んでくる。真珠のように輝く一粒々々のお米をしゃもじですくい、茶碗に移す。そして口に含み、ゆっくりと噛んでみる。懐かしい甘さが口の中に広がる。例年通りの仰木のお米を実感する。今日は、採れたての新米を初めていただく夕食である。



奥比叡・仰木棚田米  新米入荷!!

ここをクリックしてください)

皆さま、ぜひ食べてみて下さい!!

 



「奥比叡の里」。ここはお米の生産現場であり、農業という経済活動が営まれている空間です。「昔ながらの棚田」の景観や「里山環境」がどんなに素晴らしくても、先ずはお米が再生産できる価格で売れなければ、あるいは買っていただくことができなければ、この環境を守り、維持していくことはできません。

私は都会で生活する一人でも多くの人々に、この地の美味しい棚田米を知っていただきたいと思っています。ぜひ一度、食べていただきたいと思っています。但しここでの「仰木棚田米」の応援は、私の勝手な行為であり、お米の売買には一切タッチしていません。

「昔ながらの棚田」で育てられるお米の量は少なく、限られたものです。もし申し込まれたとしても、在庫がなくなり、農家からお断りされるかもしれません。何卒、ご理解いただきますよう、お願い申し上げます。

2021/08/29

残暑お見舞い申し上げます

今年の夏は、8月の初旬頃からお盆の辺りまで梅雨のような長雨が続きました。そのせいか、稲刈りも少し遅れているようです。

今日の写真は、棚田に静かな朝が訪れたところです。先月とほぼ同じ所を撮っています。僅か一月ほどの間の変化ですが、黄色くなった稲が棚田を飾っています。

日本の農村の風景は、四季それぞれに応じた顔を持ち、大きく変わっていきます。私は、それが美しいと思います。

 

晩夏。まだまだ夏日が続くそうです。熱中症、そして猛威を振るっている新型コロナの感染に充分ご注意ください。

 


 

*  今回の更新、遅くなってしまいました。本当は20日位にUPするつもりでしたが、パソコンが故障してしまい今日になってしまいました。またギックリ腰も調子が悪く、日々の撮影も厳しくなっています。寄る年波というやつでしょうか・・・・

2021/06/20

もうすぐ棚田の夏

今年は、雨の日が続くかと思えば、一転夏日のような日も続き、梅雨なのか夏なのか分かりずらい。

しかしこの梅雨もやがては明け、すぐそこに猛暑の夏が待っている。その猛暑の中、汗まみれになってこの土手の草刈りをする人々がいる。想像するだけで頭がクラクラしてくる。毎年毎年「本当にご苦労様!お疲れ様!」という言葉しか出てこない。

2021/05/16

毎年、ご夫婦での田植え作業。

田植え日和

正に五月晴れ。爽やかな田植え日和である。この写真を撮らせていただいたのは2008年5月13日。今から13年前のことになる。

今日は2021年5月16日。近畿地方に梅雨入り宣言が出された。観測史上最も早い梅雨入りだそうだ。そう言えば、5月に入ってから気持ち良く晴れたという日が少なかったように思う。今日も雲は低く垂れこめ、昨夜来からの雨が降っていた。

13年前の天気と今日の天気というピンポイントの事象を比べて温暖化が進んだなどと言うつもりはない。ただこの10年ほど、爽やかな5月という季節の中に梅雨という季節が徐々に浸食してきているように思えてならない。

2021/04/18

4月の風

早い田植えは、ゴールデンウィークの少し前あたりから始まる。4月の棚田は、田起し・畦塗り・代掻きといった田植えに向けた最後の準備の季節である。農道横の細長い田んぼも、しばらくすると水が引き込まれ、そして畦塗り・代掻きといった作業を待っているところだ。

緑に包まれた棚田の土手。そこに無数の花を咲かせるタンポポ。柿の木は新芽を吹かせ、シラサギが農具小屋をかすめて飛んでいく。青い空、白い雲。この谷を、春の風が吹き抜けていく。

*  田起し   *   畦塗り   *   代掻き①   *   代掻き②

2021/03/24

獣の眼

この小さな写真では分かりにくいが、画面中央よりやや右手に薄桃色をした塊が見える。これは棚田の中にある小さな桜の木が開花したところである。この絵は、竹や杉や檜が混在している雑木林の中から棚田を覗き込んだものである。手入れの行き届かない林は、昼間でもうっそうとして暗い。ひょっとしてイノシシやシカやタヌキやキツネなどの獣たちは、昼間はこのような雑木林などに潜み、外の世界を伺っているのかも知れない。私も獣の眼になって、息を潜めて静かにシャッターを切った。


 今森光彦さんの写真集やNHKのドキュメンタリーで有名になった「棚田の一本桜」は、今日現在2~3分咲きといったところ。天気にもよるが、今週の土・日あたりが最高の見頃かもしれない。この30年間「一本桜」を見続けてきたが、今年の開花は最も早いように思われる。温暖化というフレーズが頭の片隅にあるせいか、桜の開花を素直に喜べない何かがある。

今年はコロナ禍の花見。皆さま、ご用心!ご用心!

2021/03/14

80,000 hits !

気が付かなかったのですが、2月下旬辺りに80,000回を越える閲覧をいただいていたようです。心から御礼申し上げます。

Japan * United States * China * Ukraine * Russian Federation * United Kingdom * France * Germany * Canada * Taiwan * India * Netherlands * Romania * Italy *Korea, Republic of * Sweden * Brazil * Vietnam * Poland * Israel * Hong Kong * Austria * Turkey * その他

これらの国名は、これまで「棚田日詩」に訪問していただいた方々の主だった国々を抜き書きしたものです。


    「棚田日詩」の閲覧者を見ると、二つの傾向があるようです。

一つは、閲覧者の60%ほどが外国からの訪問者であるということです。この傾向は「棚田日詩」を始めた頃から余り変わっていないようです。外国語はさっぱりダメ。外国の友人はほとんどなく、宣伝も全くしていません。しかも、検索サイトでも探し出すことができないほど奥深くに隠れてしまっているローカルサイトです。この傾向に関しては、インターネットの不思議というより他ありません。

もう一つの傾向は、毎回の更新における閲覧者数がほとんど変わらないということです。この数年、1回の更新につき800~1000人くらいの方々に閲覧していただいているようです。恐らく、ほとんど固定した方々に見ていただいているのではないかと思われます。

「棚田日詩」は、当初2年で止めるつもりで始めました。数多くの国々の、そして見知らぬ多くの人々の閲覧に励まされて、足掛け10年も続けることができました。皆様には感謝以外ありません。

もうしばらく、いつもながらのボチボチと、そして淡々と日詩を綴っていきたいと思っています。これからも宜しくお願い申し上げます。

2021/02/24

田んぼは何もないところ?

先般、コロナ禍における聖火リレーの在り方について「人気タレントは人が集まらないところ、例えば田んぼを走るしかないんじゃないか」といった東京五輪パラリンピック大会組織委員会会長(当時)の発言がマスコミで取り上げられていた。この発言に対して、あるタレントさんは「農家の人たちにも失礼」といった批判をされていた。ということもあってか、「基本的には密を避けてほしい」「何もないところであれば田んぼで走るしかないね」という釈明会見が行われることとなった。

ところで、田んぼは本当に「何もないところ」なのだろうか? 言うまでもなく田んぼは、お米を作る所である。お米は古くから日本人の主食であり、日本人の身体を作り、日本人の働くエネルギーを生み出してきた食べ物である。日本の歴史も、日本の社会も、日本の文化も、そして日本人としての意識も、更には日本の自然環境も、コメ作り、農耕との関係なしには存在してこれなかったのではないのだろうか?  と思っている。

そうした田んぼや農村や田舎といった所に対する愛情や敬意、今風に言えばリスペクトといったものが、先の会長発言には少し足りなかったように思われる。残念なことである。

明治以後の日本は、工業・商業を中心とした国造りを目指してきた。維新から数えてわずか40年ほどで工業は農業の生産高を超えるようになった。20世紀初頭のことである。現在から逆算すればほんの110年ほど前までは日本は農業国であったともいえる。明治から現代まで、都市は農村の労働力を吸収しつつ巨大化してきた。反対に農村は、殊に戦後の農地改革や農業の機械化、兼業化等々によって農業人口は急速に減少し、過疎化してきた村々も多い。

都市の巨大化、農村の過疎化。この一対の現象の中にあって、巨大都市の人々の食べるを支えてきたのは農村である。それは、今も昔も変わらない。

恐らく日本人の中にある農業や農村、田舎といった所に対する軽視、時に蔑視は、日本の近代化、殊に工業や商業を中心にした国づくりと無関係ではないのではないだろうか。

先の田んぼや農村に対する会長発言も、それほど深く考えられてのものではないのではないか?  特別に意識することもなく、何の疑問も持たれずについつい口をついて出てしまったのではないのだろうか?  殊更意識せずに出てくる心理。私は、こうした心理は社会や歴史の中のかなり深い所にその根があるのではないかと思っている。

私は、会長発言を他人事のように「けしからん!」と言うつもりはない。恐らく私も会長とあまり変わらない意識で人生を積み重ねてきたのではなかったのか。殊に奥比叡の棚田と出会うまでは、農村軽視、無視、蔑視も甚だしかった。

田んぼや農業、農村や田舎といった所が私たち日本人にとってどのような意義のある所なのか? 殊に都会に住む多くの人々とどのような繋がりをもって存在してきたのか?  会長発言が、そんなことを考える切っ掛けになって欲しいと願っている。

私は、田んぼを何もないところとしてではなく、日本人の命を支え、日本の自然環境や文化を生み出し、日本そのものを作り出してきた所として、そしてそうした考えをバックボーンとして「棚田日詩」を綴ってきたつもりである。また私の農業観の変化なども書かせていただいてきた。(「はじめまして」「農業音痴の棚田日詩」 他をご参照ください)

田んぼは、本当に何もない所ですか?

2021/01/01

謹賀新年

2021年、明けましておめでとうございます。

今年は、奥比叡の棚田の写真を撮らせてもらうようになって31年、「棚田日詩」を始めて10年目という年になります。だからと言って、私の撮影姿勢が変わるわけでもありません。これまで通り、ボチボチ・コツコツ・淡々と棚田と向かい合っていくつもりです。そして出来うるなら、棚田からのそよ風を皆様の心の中にお届けすることができれば嬉しく思います。

年頭に当たって、私がどんな所で撮影しているのか?  少しご紹介しておこうと思います。そのことを説明するのに今日の写真は最適なものだと思っています。

写真をよく見てください。分かりにくいかも知れませんが、この写真はV字型の谷間の両側に棚田が積み重なっている風景を写したものです。まずV字型の谷を頭の中で思い描いてください。V字の一番底と棚田の一番上にある田んぼの高低差は40ⅿほどになります。10階建てのビルの高低差ほどになるのでしょうか。V字の手前の方にある一番上の田んぼと、向こう側の一番遠くにある田んぼとの距離、すなわちこの谷の幅は600ⅿほどになります。ついでに言いますと、V字の谷の一番底には、この地の農業にとって死活的に重要な役割を果たしている大倉川という小さな川が流れています。そこが標高で言えば140ⅿほどになります。もっとも大倉川は、この写真の真ん中あたりにある竹林や木立の連なりよりも更に下にあるために、隠れてしまって見ることができません。

さて、この写真の左手の方へ2㎞ほど棚田の中を登って行ってみましょう。標高で言えば300ⅿほどの高さにまで登ることになります。谷幅は徐々に狭くなり、30ⅿほどになってしまいます。棚田はこの辺りでなくなります。そこから上は奥比叡の山の中になり、林業が営まれる空間になります。

今度は、この写真の右手の方へ行ってみましょう。実はこの写真の右手から田んぼの形態は大きく変わってきます。十数年前に圃場整備が終わり、大きく四角い田んぼの棚田に生まれ変わりました。その棚田の中を2㎞ほど下っていくと、堅田の町の住宅街と接するようになります。この辺りの標高は120ⅿほどです。少し付け加えますと、堅田の町を更に2㎞ほど下っていくと琵琶湖の湖岸に辿り着きます。

そしてこの風景を特徴づけるもう一つの主役、比良山がどっしりと聳え、棚田を見下ろしています。といったところが今日の写真であり、現在の私の主要な撮影地となっている所です。ややこしいですが、少しイメージしていただけたでしょうか?

 

「奥比叡の田園地帯(南の坂本から北の伊香立辺りまで)には七つの大きな谷が刻まれている」と、かつておじいさんから聞かされたことがあります。私が棚田写真を撮り始めた1990年頃は、その全ての谷間に様々な形をした昔ながらの田んぼがびっしりと積み重ねられていました。その範囲は、東西約5㎞×南北約10㎞ほどという広大なものでした。

それから10年~15年、徐々に圃場整備が進み、昔ながらの小さな田んぼは四角く大きな田んぼに生まれ変わってきました。その圃場整備によって、田んぼには大きな農機具が入るようになり、省力化・生産性の向上・労働力の高齢化といった課題にも一定の進展があったようです。

今、昔ながらの棚田の面影を残しているのは、唯一この写真の谷間だけとなってしまいました。

今日の写真は、私にとっては原点ともいうべき風景が写っています。私が今「棚田日詩」の文章を書いているのも、棚田の中で写真を撮り続けているのも、全てこの風景との出会いが出発点となっています。1990年、偶然この場所に迷い込んだ時、「スゲェ! スゲェ!!」という言葉が無意識に口から飛び出していました。京都市という都会の中心街で育った私にとって、全く未知の、初めて見る風景との出会いに「感動」という言葉を超える感情が溢れていました。カルチャーショックだったのかもしれません。なぜかこの時、この農村地域の写真をライフワークとして撮り続けていこうと心に決めていました。その時私は40歳。それから31年、振り返ってみれば奥比叡の農業環境は激変の時代だったようです。

新年に当たって、この棚田の風景が持つ私にとっての意味を、そして奥比叡の農村の抱える現代的課題を、今一度心に問い掛けてみるのも悪くないように思います。

30年前、私はこの棚田の風景をどのように考えていたのか?  その出発点となる思いを書いた文章が「棚田日詩」にも綴られています。そのリンクを下に貼り付けておきます。

農業音痴の棚田日詩            里山について

これらの文章を読み返してみて、基本的には今もその思いは変わっていません。そしてその思いが、今も私の心の奥底を熱くしているようです。

コロナ禍のお正月。皆様いかがお過ごしでしょうか?   今年は何よりも皆様のご健康を、そしてご多幸をお祈り申し上げます。

2020/12/20

感謝!!

2012年5月に始めた「棚田日詩」も9年目を終えようとしています。

今年の年末は、コロナのせいで「巣ごもり」状態にある方々も多くおられることと思います。もちろん、私にできることなど何もありません。ただ棚田での写真を見ていただき、つかの間の気分転換でもしていただけるのなら・・・・という思いも込めてこの一年間綴ってきました。来年はコロナ禍に打ち勝ち、希望の抱ける年でありますことを心から願っています。

2020年最後に当たって、「棚田日詩」を閲覧していただいた全ての皆様に感謝と御礼を申し上げます。こんなにも多くの方々に見ていただくことがなかったのなら、遥か以前にこのホームページは終わっていたと思います。本当にありがとうございました!!