奥比叡の里より「棚田日詩」 | 未分類

2013/06/02

  かつての米づくりは、雑草との絶え間のない闘いであった。多くの労力と時間が、雑草取りのために費やされてきた。今日では除草剤というものがあり、全国の多くの農家で使われるようになっている。ここ奥比叡の田んぼでも例外ではない。除草剤の登場によって、米づくりの省力化が大きく進められたのは事実である。この写真は、背中に背負った動力によって除草剤を散布しているところである。

  消費者の立場からは、除草剤や農薬などをできるだけ使わないでほしいという要望がある。ここ奥比叡の生産者の多くも、その願いは知っておられるし、安心・安全な米づくりをしたいと思っておられる。それにもかかわらず今、除草剤の使用を直ちに止められないのは、それを止めてしまえば恐らく米づくりそのものを止めざるを得ないからである。ここには、除草剤に代って雑草を取る人手が見当たらない。

五穀米

今年は、冬から春にかけての雪や雨の量が少なかったせいか、溜め池も干上がっているような状態の時がある。そのため、ヒエなどの雑草の多い田んぼが心なしか目立つように思われる。”そのため”と書いたが、これには少し説明がいる。除草剤の効きが悪いのだ。除草剤は田植え前後に使われるが、除草効果を高めるためには水深が3~5㎝ほどの水で田んぼが満たされていなければならない。今年はその水が少なく、田面が露出してしまったりして除草効果が弱くなってしまったそうだ。

「今年のお前とこの田は、雑草(ヒエ)だらけになってるで!」

「そやろ、今年は五穀米を作ってるんや!!」

さすがにここは関西の田んぼ。こんな不幸も笑いに変えてしまう。

* 五穀米は古代から食されており、古事記や日本書紀にも記されている。米・麦・栗・ヒエ・豆などをブレンドしたものである。

 

今日の写真は、「雑草」というもので繋いでみた。上の写真から

①  かつて仰木と伊香立を繋いでいた旧道。現在は谷を埋め立てるダンプの往来が激しく、舗装されているせいもあって道の真ん中には雑草が伸びてこない。夏には、このガードレールが見えなくなるほど雑草が生い茂る。

②  圃場整備された田んぼには、必ず軽トラックが止められるスペースが作られている。ここは昔ながらの田んぼ。そのスペースがない。仕方がないので、田んぼの片隅に板を敷いて急ごしらえの駐車場を作った。雨の降った後には、この板がなければぬかるんだ泥の中に車を止めることとなる。板の細い隙間からも雑草が顔を出す。

③  畔に咲く野の草花(雑草)が愛らしい。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

④  田植えに際して稲は、きれいに等間隔で植えられていく。通常除草が成功していれば、稲と稲の間に雑草が生えてくることはない。この写真は、稲と稲の間にびっしりとヒエ(雑草)が生い茂ってきたところである。

⑤  雑草たちに占拠されてしまった農具小屋。人間がいなくなった地球を想像してみると、恐らく東京やニューヨークといった大都会もすぐさまこのようになってしまのだろう。植物(雑草)の生命力は凄まじい。右下の影は、カメラを構える自画像である。

⑥  可愛いネギ坊主の後ろにも雑草が。

⑦  棚田の畔の草(雑草)刈り

 

 

 連続講座 淡海(おうみ)の夢2013 ----------------------

 仰木・棚田写生会

 5月25日(土)成安造形大学附属近江学研究所主催の写生会が仰木の棚田で行われました。この写生会は毎年行われており、老若男女の一般の方々も参加されています。今日の写真は、翌26日のもので、先生と学生さんが昨日の続きを描いておられたようです。

不思議なもので人間は、ある種の風景と出会うと、心の中でその人のすべての人格とその風景とが化学反応を起こしていきます。その反応はやがてイメージという化合物に結晶します。そのイメージが、それぞれの技量を通じてキャンバスの中の絵や写真となって現れてくるのだと思っています。恐らくこの点に関しては、絵画でも写真でも基本的には変わらないのではないでしょうか。

それぞれの化学反応、それぞれのイメージ、それぞれの絵画、だからこそ人間は面白い。そして素晴らしい。そんなことを感じさせてもらった一日でした。快く撮影させていただいた先生方、学生の皆様に心より御礼申し上げます。

こうした取り組みを通じて、田んぼや棚田、里山のファンが一人づつでも増えていきますことを願っております。ありがとうございました。

*大切な作品を、勝手にトリミングしてしまったようになって申し訳ありません。お許しください。

 

 

 成安造形大学附属近江学研究所  (http://omigaku.org/)は、ユニークな近江についての研究活動・教育活動・地域活動を展開されています。ぜひ一度ホームページを覗いてみてください。

2013/05/26

La・ La・ La♪ Ta・u・e

かつて農村では、折りたたむように腰の曲がってしまったおじいちゃんやおばあちゃんをよく見かけました。信州にいた私のおじいちゃんとおばあちゃんも、会う度毎に小さくなっていくように見えるほど腰が曲がっていきました。そうした時代(50年ほど前)の農家のおじいちゃん・おばあちゃんからすれば、まさか「田植え」が体験学習やレクリエーションになるとは思いもよらなかったことだと思います。良かれ悪しかれ、農業とそれを取り巻く環境が大きく変わってきたのは確かなようです。

  この日の週間天気予報は雨。皆さんの日頃の行いが良かった?のか、優しい春風の吹く、青空の中での田植えとなりました。タイトルを「La・ La・ La ♪  Ta・u・e」としたのは、仕事としての「田植え」とはやはり意味が違うと思ったからです。だから横文字にしてみました。それにしても楽しい「Ta・u・e」。今日の主人公は「笑顔」です。

 


 

 * 今回の写真は、私の写真仲間である那和順一さんの写真を中心に構成させていただきました。素晴らしい春の一日の「記念」にという思いで撮影させてもらったものです。

撮影にあたっては、主催者と皆様の承諾はいただいていますが、プライバシー等の問題がある中でご依頼があれば直ちに削除させていただきます。削除依頼は、主催者である「平尾  里山・棚田守り人の会」か「リビング滋賀」、あるいは右上のカレンダーの下にある私のメールアドレスに直接ご連絡いただければ結構です。宜しくお願い申し上げます。

  * この事業の詳細は「平尾  里山・棚田守り人の会」のホームページをご覧ください。

          http://oginosato.jp/moribitonokai/ownernissi/2013/05/2013518.html

 

 

 


 

例えば、毎日食べる夕食。ご飯や野菜、肉や魚が料理としてテーブルの上に並べられています。私の場合、そこでの関心は、その料理が好きか?嫌いか?、美味しいのか?どうかといった少し贅沢な嗜好の中にしかありませんでした。もちろんそうした嗜好以前に、カロリーや糖分・塩分、アレルギー食材などに十分な注意を払わなければならない人たちも多くおられます。ただ私の場合は、幸いにもそうしたことに関心を払うということはほとんどありませんでした。私の関心は、もっぱら目の前の料理が美味いのか?どうかといったことより先に進むということはなかったのです。

目の前のお米や野菜が、どこで、どのようにして、誰によって育てられ、私の目の前に届けられるようになったのか? そこにどんな問題があるのか?  などということは、知る由もなかったし、疑問に思うこともありませんでした。私のように都会で育ち、長く都会で働いてきた者にとって、そこは遠い遠い見えない世界のことでした。要するに、料理を食べるという消費の立場からしか食べ物を見ることができなかったということです。「食」という人間の生存に関わる基本的な行為についても、ほとんど何も見えていなかったということです。

私にとって奥比叡の里との出会いは、「食」の生産現場との出会いでもありました。初めて見る農業でした。今まで考えもしなかったことも教えていただきました。それまでとは違った生産の立場からの「食」の見方も、ほんの少しできるようになったのかも知れません。振り返れば、心の中の風景も豊かになったように思います。この24年間、ここで私が見たもの、感じたこと、考えたこと、そして教えていただいたこと、それらのことを私と同じ都会で育ち、都会で働いてきた人たちにお伝えできないかと思ってこのホームページを立ち上げてみました。その人たちに、美味しい奥比叡の棚田米をぜひ食べていただきたい、そのお米が育つ素晴らしい環境をぜひ知っていただきたい、お百姓さんたちの日々の悩みや喜びも知っていただきたい、そんな思いで綴ってきたホームページです。

更にできれば、テレビやネットや書籍などのバーチャルな世界だけではなく、御自分の身体で農業や農村に直に触れていただきたいと思っています。今回のような田植えを実際に体験されることは、とても意義のあることだと思っています。今日のように分業が細部にまで発達した社会、都市と農村が大きく分離してしまった社会にあっては、生産からは消費が、消費からは生産が見えなくなってしまっています。例え疑似体験の田植えであったとしても、今までとは違った「食」の 見方・感じ方が身体の中に芽生え始めるのではないでしょうか。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

 田植えという体験。それは、私の1000枚の写真、万の言葉よりも、遥かに多くの、そして遥かに大切な情報を心の中に刻み込んでいってくれるものだと思っています。殊に、子供たちにとっては掛け替えのない貴重な体験だったと思います。

楽しい農作業、あなたも自分のお米を育ててみませんか?

  このホームページの向こうにおられる方々にこうした思いをお伝えしたくて、前回の秋の稲刈りに続いて、今回の田植えの写真を撮らせていただきました。快く撮影に応じていただいた皆様に心よりの御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。



昨年秋の「平尾  里山・棚田守り人の会」が主催した稲刈りは、下記をご参照ください。

http://tanada-diary.com/1293  (収穫の歓び)

2013/05/19

  太陽の核融合の光と熱が約8分の宇宙の旅を経て、田んぼにそのエネルギーを伝えている瞬間だ。苗床(なえどこ)の籾は、積算気温100~120℃で発芽する。やがて葉と根を伸ばし、15cm程に育つと田植えである。この写真の稲は、田植え後数日ほど経ったものであり、既に根を張り始め、しっかりと自立できるようになってきたところである。その後の稲は、葉と茎を増やしながら、増えた茎ごとに穂をつけ、花を咲かせ、受粉した実が米となる。たった一粒の種籾が2000粒ほどの米を稔らせると言われている。この生命の奇跡、生命の不思議は、太陽の存在なしに起こり得ない。この光景は、米を主食としてきた日本人の食と命を支えてきた源風景かも知れない。

太陽降臨

上のタイトル写真は、説明がなければ何が写っているのかよく分からない写真かも知れない。朝の4時半頃、日の出とともに真っ赤な太陽が、田んぼの水面にその姿を映した瞬間である。その光は水面で乱反射し、それがレンズの作用で丸い火の玉のようになって輝いているところである。

  地球がすべての生命を育むゆりかごであり、母であるとすれば、太陽はその生命の父である。毎年こうした写真を撮る度に、いつもは忘れている太陽の役割を思い起こさせてくれる。核融合で生み出される太陽の膨大なエネルギーは、ここ奥比叡の小さな小さな田んぼにも届けられ、稲の成長を促すだけでなく、田んぼと関わる無数の生命たちをも目覚めさせていく。

 

 

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週末、「平尾  里山・棚田守り人の会」と「リビング滋賀」の主催で、田植えが行われた。総勢100名ほどの棚田オーナーたちが、朝からの春の半日、気持ちのいい汗を流されていた。

この田植えの様子は、今週中にUPしたいと思っています。棚田 滋賀県 仰木 棚田米 里山

2013/05/12

山や谷を削って創り出された棚田。このような写真を見ると、農業の基礎に土木技術があり、土木事業そのものだと思えてくる。想像してみてください。まだショベルカーやブルドーザー、ダンプカーなどのない時代に棚田を作り出した人達を。そこにどれほど多くの労苦と汗が流されたのかを。そこにどれほど切実な願いが込められていたのかを。私が初めて奥比叡の棚田と出会った時、何よりもそのことに心が震えたのだった。

里山について

 昨年、「棚田日詩」の立ち上げと同時に、自己紹介という意味合いで「農業」や「自然」というものに対する私の思いのようなものを書かせていただいた。その時に、「里山」や「写真」といったことについても書いておこうと思ったのだが、毎週日曜日の更新に追われて延び延びとなってしまった。2年目というキリのいいこともあって、それらのテーマについて私の思いを少し記しておこう思う。(少し長くなりそうです。関心のない方は文章を割愛して、写真だけを見てください)

 

 1992年から95年に掛けて、滋賀・京都・大阪の十数か所で写真展を開いたことがある。どの会場でも「美しい自然の写真ですね」という共通したお言葉をいただいた。その場では「ありがとうございます」とお答えしていたが、内心では「?????」という気持ちが渦巻いていた。この「?????」は、何だったのだろうか。

  第一に、私には自然を撮っているという意識が希薄だった。私の写真が対象としているのは、農業という第一次産業の空間であると思っていたからだ。

第二に、写真の中の稲や柿の木などは、人によって改良され育てられたものであるという思いが強くあったからである。山を削って造られた棚田は、自然そのものであるはずがない。山を見ても、杉や檜は植林されたものである。竹林や雑木林も人為のものである。野の草木も、人がそれを不必要だと思えば刈り取られてしまう。確かにタンポポやススキも、チョウやトンボも、ヘビやカエルも、その生そのものは自然のものである。しかしここには、人為の影響を受けていない自然はない。この自然を単に「自然」と呼んでいいのだろうか?

第三に、ネーチャーフォト(自然写真)というジャンルの写真家は、自然の不思議・秘密の奥深くに入り込み、それを映像化される人たちである。彼らは、ほとんど学者であり、人生そのものをそれに掛けている。と当時も思っていたし、今も思っている。私のような自然音痴のアマチュアカメラマンが撮る自然の写真など、「自然写真」と言われるだけでどこか申し訳なく、恥ずかしい思いがしていた。

  そんな思いが交錯して、先の「?????」となっていた。当時はまだ「里山」という言葉を知らなかった。農業経済と結びつき、農業生産と常にせめぎ合い、共存もしている生物学的自然、この社会の活動と相互の影響関係を持って存在する自然を何と呼ぶべきなのだろうか?  そこで思いついたのが「Social Nature(社会的自然)」「Human Nature(人間的自然)」という造語だった。「里山」という言葉を知るまでの半年か一年ほどの間、奥比叡の里の自然をそのように考えていたし、そのように見つめていた。

(注)  「里山」「奥山」という言葉は、既に江戸時代の文献にも見られるそうだ。近代的な意味での「里山」は、1950年半ば頃から生態学の中で発展してきた概念である。その「里山」という概念の中には、人の活動と相互関係を持つ生態系の実相、その歴史的変遷、社会的意義といった具体的な内容の詰まった、あるいはこれから更に詰まっていく概念である。他方、「Social Nature(社会的自然)」には、社会と生物学的自然との関係の具体的内容はなく、ある意味「空っぽ」の概念であり、思い付きを超えるものではない。ただ「里山」というものを理解するうえで下敷きにはなっていたと思っている。

 

美しい響きとともに、郷愁のような感情すら呼び覚ます「里山」という言葉。その言葉を初めて聞いたのは写真家の今森さんからだった。「あなたも里山を撮っているんや」と言われた時だった。確か1993年か94年の初め頃だったと思う。その時は、山里のことを「里山」という別の言い方もあるのか?と軽く疑問に思う程度だった。それから一週間も経たない頃だっただろうか。今森さんの写真集や著作を読み返していた時だった。突然「里山」という言葉が身体を貫いた。これは大げさな表現ではなく、実際にそのように感じたのだった。そこにある「里山」は、決して山里の別の言い方ではなかった。その時理解した「里山」とは、(できるだけ今森さんの言葉をなぞらえば)

①  人間の手の入らない無垢の自然を第一次的な自然だとすれば

②  里山は、人の暮らし、人の営みと互いに影響を及ぼし合って存在する生命ある自然。無垢の自然に対して里山は、二次的な自然だともいえる。

要するに、人の暮らしと共にある生物学的自然、その空間だと理解した。厳密な意味で、今森さんの言う「里山」がこの理解で正しいのかどうかは自信がないが、当時も今もこのように思っている。

「革命」だと思った。日本人の自然観の「革命」だと思った。ここでいう革命とは、それまでの日本人の自然観の延長線上にある概念とは異なり、質的に違う、新しいステージ、新しい段階を表す概念だという意味である。これまで私たちは、人の入ったことのないアマゾン奥地の生物学的自然も、田んぼの畔に立つ柿の木やその実を食べにくる鳥たちも共に「自然」だと理解し、それを分けて考えることはなかったのではないだろうか。

無垢の自然と社会的影響下にある自然を分離して(無関係という意味ではない)見る見方、「里山」という視点を持つことの社会的意義は重大である。
 「 自然との共生」。この言葉は、現代社会が自然との共生を忘れ、それをいかに破壊してきたのかという現実の反語である。わが国の国土の大部分の自然が里山化されている今日、人間活動(殊に経済活動)を考慮に入れない自然観、その下での「自然との共生」は、一つの空語に過ぎない。そしてそれはわが国のみならず、世界の自然が里山化されていく現代にあって、「里山」は世界史的意義を持つ概念であるはずである。

当時、私の身体を貫いた「里山」についての理解は、概ねこのようなものだった。

 

今森さんが「あなたも里山を撮っているんや」と言われた言葉は、少し正確ではない。今森さんは「里山」という思想・科学を目的意識的に映像化しようとしてシャッターを切ってこられた。私の写真に「里山」の思想や「里山」を映像化しようという目的意識性はない。むしろそうしたことをできるだけ意識せずに、心の向くまま、気の向くままに撮影しようと心掛けてきた。私にとっての「里山」は、撮影の目的や動機ではない。むしろ撮影の結果である。言葉を変えれば、「里山」を撮っているのではなく、「里山」が写っているといった方が正確だと思っている。

いつもファインダーを覗いていて、チョウや草花の写真だけでは何か情報量が足りないように感じてしまう。そこに人が作ったものや、人の気配のようなものがないと物足りなくなってしまう。こうした感覚は、田んぼ写真を始めた頃から今日まで変わっていない。そこがある意味、私の写真を里山的なものにしているのかも知れない。

  京都市という都会の中心街、自然とは遠く離れた所で育った一人の人間が、今森さんの言う「生命の小宇宙」と出会って何を感じ、何に心動かされたのか?  その軌跡のようなものが私の写真の中に写っているのも確かである。要するに、都会の人たちが「里山」(や棚田)という空間に出会って、そこでどんな心理的影響を受けるのかといった一例の写真であるとも思っている。

  このホームページのタイトルを「里山日誌」とせずに「棚田日詩」としたのには理由がある。振り返ってみれば私の個人的な関心が、生態学や自然の中にあったのではなく、もう少し人間の社会という角度からこの風景を感じ、見つめてきたからである。(単に見つめてきただけで、それを目的意識的に映像化しようとしてきたわけではない)  そして私の写真自体が、ドキュメンタリーのようなものではなく、心象的な色彩が強いと思っているので「日誌」ではなく「日詩」としてみた。

 

(「里山」については、もっと書かなければならないこともあるのですが、別の機会に譲りたいと思います)

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一番上のタイトル写真は、馬蹄形の棚田の右側の土手を撮ったものである。今日田んぼに出てみると、その馬蹄形の棚田の中心にある田んぼが田植えされていた。例年は、酒米の山田錦を植えているせいか、この辺りでは一番遅い5月末~6月初旬の田植えだった。今年は一般の食用の米を植えるため、早まったそうだ。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

2013/05/05

  4時過ぎ、朝陽を待つ。辺りはまだ暗闇に包まれていた。春だというのにセーターを重ね着しなければならないような寒さだ。闇を切り裂くような鳴き声を残してケリ(チドリ科)が飛び去っていく。時折、牛ガエルの濁声が響き、田んぼに飛び込む水音がする。やがて東の空が茜色に輝き、辺りの景色を染めていく。

  40億年以上繰り返されてきた夜から朝へのドラマチックな交代劇である。田んぼに描かれた小さな波紋。この波紋が遥か宇宙の彼方にまで広がっていくような、そんな不思議な感覚の中でこの風景を見つめていた。

水面が映すもの

 田植えの季節、棚田は水の大地に生まれ変わる。鏡のような水面が空や雲、新緑の柿の木やハサ木、そこで働く人々、周りの風景、周りの生命を映し出してキラキラと輝いている。奥比叡の里では、最も美しい季節の到来である。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

  「私が嫁に来た頃は、夜が明ける前から農作業の準備をし、昼ごはんやヤカンを持って牛と一緒に山の一番上の田んぼにまで行ってたもんや。ほんで、日が暮れるまで家には帰れんかった。」「帰りが遅うなったらなったで、『家の用事もせんと!』と言うて姑から怒られる」「最近の孫の嫁なんか、一緒に田んぼに出よう言うたら、すぐに『頭が痛い!』って言いよる(笑い)・・・・・」

この話をおばあちゃんから聞かされたのは、今から十数年前のことである。まだおばあちゃんの若かりし頃の70~80年前、農業は機械化されておらず、田んぼは多くの女性の労働力を必要としていた。今ではほとんど死語となっているが、「五月女」「早乙女」(さおとめ)という言葉がある。元々は田植えに際して田の神に奉仕する少女を指す言葉であったが、後に田植えをする女性全般に用いられるようになった敬称である。かつて田植えは、この早乙女たちによって支えられていた。この奥比叡の里でも、様々な年代の早乙女たちが田植えをし、谷間に若い女性たちの華やいだ声が響いていたはずだ。そして田んぼの水面には、彼女たちの田植え姿が映し出されていたはずだ。

私が田んぼの撮影を始めて24年、この間、若い女性の田植え作業を見掛ることは本当に少なかった。棚田の水面は、辺りの美しい風景を映し出すだけでなく、村に流れた時代の変化をも映し出してきた。

 

2013/04/28

そこは天空に浮かぶ棚田だった。田植え前のこの時期、全ての田んぼで畦の補修が行われる。土手のヒビ割れやザリガニ・モグラなどが作った穴を塞ぎ、水漏れを防ぐためだ。都会育ちで農業未体験の私も手伝わせてもらったことがあるが、これが中々の重労働。体力・根性ともに不足している私など「農業は絶対ムリ!」と直ちに納得した。彼らの祖先は、千三百年もの昔からこの大地を耕してきた。そして地を耕すことを通じて天(社会)を支え、天(社会=政治や文化など)をも耕してきた。

天耕の棚田

 

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昨年の5月6日に始めさせていただいた「棚田日詩」もようやく一年目を終えるところまで来ました。振り返れば、この一年の長かったこと! そして更新日を迎える一週間の短かったこと!  「ああ、シンドかった」というのが正直な気持ちです。それでも、美味しい「棚田米」が育つ環境の一端でもお伝えすることができたのなら嬉しく思います。

このホームページを見ていただいた皆様に、心からの感謝と御礼を申し上げます。

    私にとってこのホームページは、インターネットの世界で何かをする初めての経験でした。その中で、インターネットというものの不思議さを体験する一年でもありました。

数人の方から「もっと宣伝したら」というアドバイスをいただきました。当初、ホームページの開設をお知らせするポストカードを100枚プリントしました。現在、まだ30~40枚ほど残っています。宣伝することよりも、「棚田日詩」を続けていくことができのるかどうか?  見ていただくのに相応しい質になっているのかどうか? といった私の能力に対する心配の方が常に先行していました。今も宣伝することよりも、「まずは、自分のレベル(写真・文を含めた内容)をもっと高めていかなければ!」という思いが強くあります。少しづつですが、このホームページを通じて学び、そのことによってレベルを上げていければいいなぁと思っています。

少し自信の欠如した、自分勝手なホームページにも5000を超える閲覧があったということは、私にとっては嬉しくもあり申し訳なくもある予想外の出来事でした。きっとこの予想外も、インターネットの世界だからこそ起こる不思議だと思っています。

もっと予想外で不思議なこともあります。多くの外国の方が来訪されていることです。訪問者数を国別で見ると、アメリカ500、ウクライナ90、中国60、ドイツ40、ロシア・リトアニア各10、他13か国といった具合です。閲覧数で見ると、ルーマニア・ポーランド・イスラエル・ニュージーランド・ブラジルなどの国々の方に多く見ていただいているようです。中国の友人は多くいます。アメリカにも少しいます。しかし他の国の方は、誰一人知りません。しかも極めてローカルな「棚田日詩」をYahooやGoogleの検索エンジンで探すのは不可能に近い至難の業だと思われます。加えて「棚田日詩」は、全文日本語です。このカウントの根拠がまったく分かりません。ひょっとして、現地に在留している日本の方々に見ていただいているのでしょうか? それとも、各国の検索エンジンのようなものが見にきているだけなのでしょうか?  いずれにしてもアナログ人間の私にとっては、不思議な不思議な世界です。もし外国の方に見ていただいているとすれば、日本の農村の持つ輝き、美しさ、そのポテンシャルのようなものがお伝えできればと思っています。そして、少しでも日本に対する関心を持っていただけるならと願っています。

当初の予定通り、あと一年「棚田日詩」を続けていこうと思っています。お付き合いいただければ、こんなに嬉しいことはありません。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

2013/04/21

下(しも)の方から、水の入った田んぼが徐々に多くなってきた。代掻きや水漏れを防ぐ畦の補修など、田植えに向けた準備が着々と進められている。ただ溜め池を見ると、水が少なく、干からびた土手が剥き出しになっている。この溜め池は、大倉川からポンプで水を吸い上げているのだが、今年はその川そのものの水量が少ないらしい。連休前後から本格的な田植え。水を一番必要とする時期に、この水の量で大丈夫なのだろうか?

松本さんの野菜畑

今日の写真は、松本さんの野菜畑とその周辺の棚田風景である。

奥比叡の里は、基本的には水田の里である。畑は、規模も小さく数も少ない。ほとんどが、家族で食べられる分かご近所に配られる分しか作っておられない。ただ最近は、奥比叡の里でも労働力の高齢化といった問題があり、レンタルの野菜畑が増えてきた。その多くが圃場整備の終わった四角い田んぼの中に作られている。

松本さんも農地を借りて野菜作りに励んでおられるお一人である。松本さんの野菜作りは、既に10年以上のキャリアがある。この辺りでは、農地を借りて野菜作りを始められた草分け的存在である。そのせいか松本さんの野菜畑は、圃場整備された新しい田んぼの中ではなく、昔ながらの美しい曲線を描く棚田の中にある。面積は250坪ほど。素人が手を出すには、持て余してしまうほどの広さである。そこに毎年10種類前後の野菜と果物を育てておられる。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

 

10年ほど前から松本さんの姿をよくお見かけするようになってきた。当時、じっとしていても辛い真夏の太陽の下、ポリタンクに入れた水を両手にぶら下げて、棚田の坂道を何度も何度も往復されていた。その姿には、感心を超えて感動すら覚えたものだった。今も水には気を使われている。基本的には溜められた雨水と自宅から運んできた水を使っておられる。できるだけ農薬などの混ざらない水で野菜を育てたいと考えておられるからだ。

 

写真には、ネギ・ソラマメ・白菜・万願寺唐辛子・エダマメ・イチゴ・下仁田ネギが写っている。しかしその写真の中には、野菜だけでなく、素人から始められた松本さんの汗と努力も写っている。

2013/04/14

溜め池

米作りという観点から見ると、奥比叡の里は決して水の豊富な所ではない。比較的温暖で雨量も少ない。山々から流れ出る川、といってもどれもが小川のような川ばかりだが、水量も乏しく、急な勾配を下ってすぐに琵琶湖に流れ込んでしまう。その川も、田んぼよりずっと低い所を流れている。そうした事情もあって、この辺りでは田んぼより少し高い所に溜め池がいくつか作られている。平地の溜池と違って、規模も小さく、多くは土手や林に遮られて、一見しただけではどこにあるのか分からない。ひっそりと隠されたような池たちである。

上の写真は、そんな溜め池の一つである。周りは杉や檜の林に囲まれ、普段は訪れる人の少ない静かな、そして地味な溜め池である。ところがこの桜の季節、にわかに水面が華やぎ始める。この小さな写真では分かりづらいが、青空と満開の桜を映しているだけでなく、はかなげな桜の花びらがさざ波に揺られながら水面を漂って美しい。

 

こんな静かな溜め池にも、問題は起きてくる。数年前から、琵琶湖で釣れた外来魚などを放流する人たちがいる。釣り堀代わりにされているようだ。村の人たちに聞くと、その魚たちが田んぼにまで現れ、田植えされたばかりの稲の根を傷つけてしまうそうだ。この辺りの生態系が壊れていくといった問題もあるのかもしれない。いずれにしてもこの山里の小さな溜め池に、いつまでも静かな時が流れていってくれることを願ってやまない。

 

上の写真は、棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

① 「一本桜」の下を軽トラックが一台。ようやく冬を越した春の暖かさ、春の華やかさがそこにあった。

②   桜の蕾が、命の愛らしさ伝えてくれていた

③   ソメイヨシノはクローンだが、命を紡ごうとするエネルギーはいかほどのものか?  満開の桜がその精一杯の力強さを教えてくれているように思えた。盛んに行き交う軽トラック。今年の農作業も、いよいよ戦闘開始だ。

④  「一本桜」の花の中に、大地を耕す人がいた。今年の農作業が、稔り多かれと願った。

2013/04/07

すでに日の出の時刻は過ぎていた。空は厚い雲に蔽われ、朝でもなく夜でもない不思議な光の中にあった。枝打ちされたばかりのクヌギの向こうに、満開の桜と農道が少し妖艶な色彩を帯びて浮かび上がっていた。山道のような曲りくねった農道は、生産性の低い棚田農業の象徴である。条件の厳しい棚田では、平地の3倍・4倍の労力をかけて、収量は1/3・1/4というところもあるようだ。だからといって棚田のお米が高く売れるわけではない。という不条理が美しく目の前にある。

一本桜

上の写真は、今森さんの写真集や著作の中でたびたび紹介され、有名になった棚田の「一本桜」である。ソメイヨシノの寿命は平均60年ほどだといわれている。この老木はすでに樹齢80年を超し、歳を経たものだけが持つ風格と存在感を備えている。この時期「一本桜」を目指して多くの人々がやって来る。棚田はその人々でにわかに賑わいを見せる。この桜の下で、北は東京や横浜、南は広島や福岡の人ともお会いしたことがある。棚田を前景に桜を撮る人、桜の下で記念撮影をされていく人、誰もが棚田独特ののびやかな雰囲気を身体全体に味わって帰っていかれるようだ。

 

 棚田 滋賀県 仰木 棚田米 里山

今週と来週は、この「一本桜」を中心に奥比叡の桜を紹介していきたいと思います。

2013/03/31

 私は決して「大塚製薬」の社員ではありません・・・・・?!  農村風景と工業製品との組み合わせが何とも面白く、昔からこうした風景を多く撮ってきた。本来捨てられるペットボトルに水を入れ、ビニールシートの重しに使うという人の心も面白い。そして何よりもポカリスエットのロゴがオシャレである。これが日本茶のペットボトルなら撮っていなかったかもしれない。背後にある菜の花の黄色が、今の季節を表していた。

菜の花

 今日、仰木と伊香立を回ってきた。伊香立では桜の花が咲き始め、春霞の山々もコブシの白い花で点々と彩られるようになってきた。本格的な春の到来である。棚田では、野焼きの煙がそこかしこで昇り、色とりどりの野の草花に覆われるようになってきた。そうした中でもひときわ目を引くのが菜の花である。

 

菜の花と言えば、一般的にはナタネやアブラナの黄色い花を連想するが、白菜、キャベツ、ブロッコリー、小松菜などの白や薄紫の花もすべて菜の花と呼ばれている。菜の花とは個別の種に用いられる名称ではなく、食用の「菜っ葉(なっぱ)」に咲く花の総称のことである。

日本人と菜の花の付き合いは古く、日本書紀の中で7世紀末にはその栽培が奨励されていると記されている。更に室町時代の後半には、ナタネ油が灯火や食用、油かすは有機肥料として用いられるようになってきた。昭和30年頃までは二毛作(裏作)の代表的な作物であり、国からもその栽培が奨励されていた。今日では、電気やガスの完備、安価な輸入品の増大、稲の早植化などによってその作付面積は激減し、国の統計資料からも外されてしまっている。

 

奥比叡の里でも、20年程前にはまだ田んぼ一枚全部が菜の花畑という所もいくつか見られたが、最近は家族で食べるだけなのか、ほんの一塊の菜の花が田んぼの一隅に植えられるだけとなっている。それでも毎年3月に入ると、菜の花畑を探す棚田巡りが楽しみの一つとなっている。菜の花と出会う度に、なぜか心まで暖かく軽やかな気分になってくるからだ。さぁ、口笛でも吹いて棚田を歩こう!棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

 

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今年の桜の開花は、例年より1週間から10日ほど早いように思われる。3月10日の棚田日詩で「春の雪」を紹介したが、今年は春の到来が早く、2月末に降った淡雪がそれだったのかも知れない。今年の米作りは、どうなるのだろうか?

2013/03/24

春起こし

棚田に春が広がっていく。先週紹介したカエルの卵は孵化を始め、5㎜ほどの可愛いオタマジャクシになっていた。土手の枯草から顔を出し始めたショウジョウバカマと青紫のスミレ、ミスジチョウやキチョウの仲間が蜜を求めて飛び交い、耳を澄ませばヒバリやキジの鳴き声が棚田の谷間に響いていた。棚田  滋賀県  仰木  棚田米  里山

普段の日曜日は農作業をする人影も少ない。しかし今日は違う。田植え前の春起こし(田起こし)が多くの田んぼで行われていた。赤や青のトラクターが土を掘り返し、畝を作っていく。収穫後の秋から春の田植えまでの間に田起こしは1~3回ほど行われる。どのタイミングで何回行われるのかは、それぞれの田んぼの環境、農家の考え方の違いなどによって異なってくる。この時期の田起こしは、田んぼに芽生え始めた雑草を鋤き込み(除草)、代掻きをし易くするのが主な目的となっている。棚田は先週あたりから、小さな生命の目覚めだけでなく、多くの軽トラックが行き交う本格的な春の賑わいを見せ始めてきた。

 

2013/03/17

それぞれの浅春

三月も半ばを過ぎ、五月初旬を思わせるような暖かな日が多くなっている。既に京都市内では、八重の桜が何本か咲き始め、行き交う人々の目を楽しませていた。しかし奥比叡の桜の蕾はまだ固いようだ。滋賀県 仰木  棚田  棚田米  里山

 

一番上のタイトル写真は、春霞みの山を背景に梅とマンサクの花?が午後の射光線に輝いていた。山里の何とものどかな浅春がそこにあった。

二枚目と六枚目・七枚目の写真は、野焼きの一コマである。この日はご夫婦で作業をされていた。土手の枯草は、かつては牛の飼料などにも利用されていたが、今はほとんどが燃やされてしまう。

三枚目の写真は、満開のオオイヌノフグリの中にタンポポが一輪咲いていた。今オオイヌノフグリは、棚田の隅々で青い宝石のように輝いている。

四枚目の写真は、田んぼの畝の間に産み付けられたカエルの卵。可愛いオタマジャクシが孵化してくるのも、もう少しである。

五枚目の写真は、捨てられたタイヤを挟んで、秋の枯草と春の花の対比、季節のバトンタッチが面白かった。

六枚目と最後の写真は、野焼きの畦の一隅である。冬が燃やされ、春の目覚めを誘う風景である。黒く焼けた枯草、焼け残った雑草の新芽、風に飛ばされてきたクヌギ?の枯葉。この小さな一隅に、冬から春への季節が入り混じっていた。

 

今、奥比叡の棚田では、それぞれの生命(いのち)の上に、それぞれの浅春の時が流れている。

2013/03/10

3月の雪

季節は、三寒四温の中にある。数日前は5月初旬の陽気かと思っていたら、今日はシャッターを押す指先が凍えてしまうような寒さだった。3月の棚田は、冬景色の中に春が芽生えていく季節であり、冬と春が同時に混在している時期でもある。これから暖かい日と寒い日を何度か繰り返しながら、田んぼはやがて春の草花に覆われていく。

 

この辺りでは毎年、3月の中頃にこの冬最後の淡雪が舞う。上の写真がそれである。12月から2月に掛けての雪景色とは、どこか違っている。3月特有の雪景色である。雪の量もさることながら、よく見ていただくと、田んぼの地色が 少し緑色がかっているのがお分かりいただけるだろうか。小さな雑草が芽吹き始めているからだ。この雪が3月下旬あたりに降ると、田んぼの地色はもっと鮮やかな緑になっている。まだ茶褐色の枯草に覆われた棚田にあって、緑や赤や黄色の小さな草花との出会いは、いつも心をときめかせてくれる。それが3月という季節の楽しみであり、喜びである。

 

今日は北風が強く、先週のオオイヌノフグリなども花弁を閉じ、蕾の状態で寒さに耐えていた。それでも今年最初に見る梅の花が、点々と棚田を彩っていた。恐らく先週の暖かな日に一斉に開花したのだろう。白く小さな花を咲かせるタネツケバナ(アブラナ科)、暖かな陽射しを待つ蕾のままのアザミ、動きの鈍いイトトンボ、田んぼの 水溜りに産み付けられたカエルのタマゴ。今日の散歩で出会った小さな春たちである。

帰り際にもう一度棚田を見渡すと、田んぼに溜まった水を抜き、土を乾燥させるための溝掘りが一人の農夫によって黙々と続けられていた。滋賀県  仰木  棚田  棚田米  里山

 

2013/03/03

春の予感

3月になった。暦では春である。しかし今年は雪の舞う日も多く、棚田はまだ茶褐色のモノトーンの世界にある。畦や土手は枯草に覆われ、柿の木や雑木の枯れ枝が北風に耐えている。棚田は全体として冬の景色である。

 

昨晩も雪が舞い、仰木の村も棚田も薄い雪化粧の中にあった。春の雪景色の命は短い。今日午後から田んぼに出てみると、雪はすっかり消え、奥比叡の山々の斜面に白いものがポツポツと残る程度であった。カメラを持たずに、一時間ほど田んぼの中を歩いた。肌寒い風が身体を引き締める。時折雲間からのぞく太陽が、頬を優しく温めてくれる。寒さの中の暖かさ。本当に気持ちがいい。私はいつも、この暖かさの中に春の到来を予感してきたのかもしれない。この心地よい世界を身体の隅々に感じたくて、ゆっくりゆっくりと、一歩一歩を踏みしめながら歩いた。気が付けば小さな羽虫が黒い集団となって頭の上をうるさくついてくる。羽虫は時折口などに入って気持ちのいいものではないが、この虫が出てこなければ、この虫を食べるトンボなどの少し大きな昆虫も現れてこない。私にとっての羽虫は、本格的な春の生命のめざめを誘う先導者なのである。もうそこに春が来ている。

 

足元を見れば、ホトケノザやオオイヌノフグリ、タンポポなどの花が枯草の中に遠慮がちに咲いていた。棚田の土手を味わうように見ていかなければ見逃してしまうほど、まだまだ枯草に隠れた彼や彼女たちである。それでも、あと一月もすれば、彼らが畦や棚田の土手の主役になっていく。

冬の間に崩れた水路や土手を補修する槌音が、夕暮れ近くまで平尾の谷間に響いていた。

 

2013/02/24

伊吹山遠望

仰木の棚田から望む伊吹山である。伊吹山は、滋賀県と岐阜県の県境に位置し、滋賀県最高峰(1377m)の山である。仰木からは北東の方角にあり、琵琶湖を飛び越して、直線距離で60㎞ほどになる。琵琶湖の南を回り込んで東海道に沿って北上して行くと100㎞近くの道程となる。冬の空気の澄んだ日には、この伊吹山地だけでなく、三重県との県境にある鈴鹿山系などもくっきりと姿を現してくれる。まだ人々が身分に縛られていた時代、自由な移動が制限されていた時代、徒歩が主な交通手段であった時代、その時代の仰木の村人たちは、遥か琵琶湖の彼方に現れる山々をどのような思いで眺めていたのだろうか?滋賀県  仰木  棚田  棚田米  里山