奥比叡の里より「棚田日詩」 | DIARY

2014/04/13

蜂の死

足元で何かが動く気配がした。見てみるとクマ蜂だろうか?  桜の花びらを抱いて苦しげに悶えていた。どのような原因でそこに倒れていたのか分からないが、あと数時間の中に彼の命が絶えるであろうことはすぐに分かった。死の間際にあってもなお彼は、レンズの向こうから射抜くような視線で私を威嚇していた。それは、死を恐れる視線ではない。種としての任務を最期まで全うする視線であった。数秒だろうか、レンズを介して互いを凝視する中で、私にはそう見えたのだった。私は、彼のDNAに刻まれた生命の凛々しさのようなものを感じながら、ゆっくりとシャッターを落とした。

この後、彼が鳥や昆虫たちに食べられてしまうのか、微生物などによって分解され土に戻っていくのかは別にして、他の命の糧になることは間違いない。先祖から受け継がれてきた田んぼ。その田んぼの土には、彼らと同じ無数の昆虫やミミズ、微生物やバクテリア、カエルやモグラなどの小動物、そして無数の植物の生命が、その生と死が積み重なっている。その土の中で稲が育ち、やがて私たちの生命をも繋いでいく。無数の死者が生者を育む。私たち人間も、大自然の生命の循環の中で生きている。生かされている。

2014/04/06

サクラのささやき

馬蹄形の棚田の横に、村の人たちが棚田来訪者のための駐車場を作ってくれている。今日の写真は、その駐車場にある桜の一本である。まだ若木のため、この桜を写す人はほとんどいない。私自身もこのカットを撮るまでは、一度もカメラを向けたことがない。

撮影も終え、三脚と機材を車に仕舞い込み、帰り支度をしていた。丁度その時だった。背後から「私を撮って!撮って!」という可愛い声が聞こえたような気がした。振り返ってみても誰もいない。何とも愛らしい桜が一本、佇んでいるだけだった。きっとこの桜に呼び止められたのだ。私は再びバッグからカメラを取り出していた。

棚田街道(*)を行き交う軽トラックを背景に、いよいよ田植えの準備が始まる季節、畦の草花が咲き誇る季節、蛙や虫たちの生命が目覚める季節、そんな春の歓びを表現してみたいと思った。

私は超常的な現象をほとんど信じていないが、撮影をしていると、時折不思議な感覚の中でシャッターを押すことがある。この不思議な感覚をどのように表現したらいいのか分からないが、何かに導かれるように撮影している自分がいる。この写真の時もそうだった。自分の意志ではなく、被写体の方から呼び止められているようなのである。この写真では、可愛い女の子の声がしたように思ったのだが、時にはヒドイ呼びかけに出会うことがある。「オイ、ヘタクソ!! 俺を撮ってみろ!」というオッサンの声が響くこともある。


 

季節は「三寒四温」の中にある。この2~3日は、冬に逆戻りしたような「寒」の日が続いている。車の温度計も4度まで下がり、棚田の向こうに見える比良山も再び白く雪化粧されていた。信州や東北などの北国は別にして、この辺りでこんなに桜と雪が絡む風景と出会えるのも珍しい。

有名な「棚田の一本桜」(*)は、五分咲きといったところだろうか。桜の下でお弁当を食べる人、子ども連れで記念撮影をしていく人、デートで来られている人、アマチュアカメラマンの人たち、今年も多くの人たちと出会った。それでもこの2~3年、棚田を訪れる人の数が随分少なくなったように感じられる。様々な要因があるのだろうが、殊に獣害対策用の金網が張られてからは、その傾向が顕著になったようだ。(もちろん農家の人々からすれば、却って静かになっていいと考えておられる方が少なからずおられることも充分理解できることである)

猪や鹿による獣害(*)は、奥比叡の農村地帯に限ったことではない。ここ数年、日本全国の広い範囲で確認されているようだ。恐らくこの数十年の日本社会の急激な変化が、こうした問題としても現れているのだろう。だとすればこれは、一人農村の問題ではなく、社会全体で考えていかなければならない問題ではないだろうか? 歴史的にも掛け替えのない棚田の景観やそこにある素晴らしい里山環境と調和する対策を、電気柵や金網ではない対策を、真剣に考えていく必要があるのではないだろうか?

*  棚田街道  (どうしよう

*  棚田の一本桜  (一本桜

*  猪・シカの獣害  (年の瀬の後片付け

2014/03/30

四月の棚田

あと2日で四月である。 四月は、田植え前の最後の準備でにわかに慌ただしくなる。田んぼには水が張られ、畦の補修(天耕の棚田)や代掻き(しろかき)という作業が行われていく。代掻きは土と水を混ぜ込み、泥々の状態にしつつ、田んぼ全体をほぼ水平に整地していく作業である。真ん中の小屋の後ろにある田んぼの何枚かは、水面から土が覗いている。これは畦の補修が終わったばかりで、まだ代掻きが行われていない田んぼである。その後ろの黄土色に濁った田んぼは、代掻きを終えたばかりのところである。かつては牛を使って代掻きをしていたが、今日ではトラクターが使われている。

代掻きが終われば、その後一週間前後で田植えが始まる。その苗は、後ろの小屋の横にあるビニールの育苗シート(苗代)の中で育てられている。

四月は、棚田の土手も緑色に変わり、その中にスミレやタンポポの花が嬉しそうに咲き誇ってくる。あと3週間ほどすれば、奥比叡の棚田全体がこのような風景に包まれていく。

この写真を撮ったのは、23~24年前に遡る。当時、おばあちゃんから「この辺りの田んぼのいくつかは、戦中・戦後の食糧難の時代に国の指導に従って山を削って創り出したもんなんや」「当時は多くの働き手が戦争に取られてたもんやから、残された年寄と女・子供が中心になってやったんや」という話を聞かされていた。こうして作られた棚田は、耕作面積も小さく、今では耕作放棄地になっている所が多いようだ。

農具小屋の後ろの雑草だらけの棚田も耕作が放棄されている。よく見ていいただくと、写真の左上に雑草に覆われた棚田がある。当時すでに耕作は放棄され、山に戻りつつあった。その後、この谷の棚田のほとんどと言っても良いほど、全部が耕作放棄地となっていった。

今は更にその姿を大きく変えている。写真の左の方には、新しい二車線の農道(奥比叡棚田街道「どうしよう」)が開通した。それに伴って田んぼも圃場整備され、四角い大きな田んぼに生まれ変わっている。

この昔ながらの棚田の風景もまた、農業をめぐる環境の変化、時代の移り変わりという荒波の中で消えていかざるを得なかったようだ。

2014/03/23

土づくり(堆肥)

水ハケが良く、かつ、水持ちが良い。田んぼの土は、この正反対の性質を同時に充たすことを求められている。この相反する要素を土に持たせるために、古来より堆肥が使われてきた。堆肥は、刈り取られた雑草や落葉、鶏や豚・牛馬の獣糞、人糞、稲わら、家庭から出る生ゴミなどの有機物を微生物に分解させることによって作られてきた。堆肥の歴史には様々な考えがあるようだが、古くは縄文時代、大陸からの米の渡来と伴にその技術が入って来たのではないかという説もある。

今日では化学肥料の普及もあって、堆肥を自分で作る人は少なくなっている。ただ西村さん(仰木棚田米嬉しいメール)などは、棚田の一角でご自分で作っておられる。

今日の写真は、田んぼに捨てられた蕪(カブ)である。この他にも、柿やミカンの皮、白菜などの外葉、間引かれた玉ネギなどの野菜、等々の生ゴミ的なものが捨てられている。ここでは「捨てられた」という表現以外に思い付かなかったので、あえてこの言葉を使っているが適切ではない。これらは決して「捨てられた」ものではないからである。農家の人たちからすると、これも土づくりの一つであると考えておられる。この写真の蕪も、やがて土の中に鋤き込まれ、微生物などによって分解され、堆肥的な役割を果たしていくのだろう。

稲刈りの終わった10月頃から翌春の3月頃まで、こうした光景をそこかしこの田んぼで見掛るようになる。殊に、春先には増えてくるように思われる。

古来より米を主食としてきた日本人。その日本人の食生活と生命は、田んぼの片隅に現れるこんな小さな光景にも支えられてあったのではないだろうか。

2014/03/16

先々週あたりから、梅の花がほころび始めた。別名「春告草」とも呼ばれている。確かに、寒風の吹き抜ける冬枯れの棚田にあって、一番乗りで華やかさを添えてくれるのが梅の花である。正に春の来訪を告げているように見える。朝夕の黄色味を帯びた空の下で見る梅の花は、どこか天平の時代に連れ戻してくれるような風情がある。

春を代表する花といえば、今日では桜である。しかし平安時代以前は、当時の憧れの中心であった中国文化の影響を受けて、梅の花がその代表格であった。「桜見の宴」ならぬ「梅見の宴」が催されていたのだろう。

棚田に点在する梅の木は、偶然そこにあるわけではない。すべては果実を採るために、そこに植えられ育てられている。目的は、梅干しや梅酒などである。観賞も兼ねて、農家の庭木となっているものも多い。

古代の梅干しは、保存食というよりも、黒焼きされて虫下しや熱冷ましの漢方薬として使われていたようだ。今日の梅干しは半年ほどの賞味期間だが、昔ながらの製法(塩分濃度30~50%)で作られた梅干しは100年は優に持つそうだ。梅干しの並外れた保存特性にも驚かされるが、この他にも傷の消毒や伝染病の予防、防錆処理などにも広く使われてきたという。梅干しをご飯の真ん中に置いただけの「日の丸弁当」は、素朴だが最強の弁当なのかもしれない。

古来より、日本人の生活の最も近くに寄り添ってきた果樹が梅の木だったのではないだろうか。しかも本州以南の全国津々浦々、何処ででも育てられてきた果樹だったのではないだろうか。そうした意味では梅の木は、柿の木(棚田の柿の木)と共に日本人にとって最も里山的な果樹だったのではないだろうか。

2014/03/09

春の棚田色

かつて伊香立と仰木との境目あたりに2つの小さな谷間があった。もちろんこの2つの谷間も、昔ながらの小さな田んぼが積み重ねられた棚田であった。ここで過去形で書いているのは、一つの谷間は、すでに工事用などの残土で埋め立てられてしまっているからである。

今日の写真は、残された方の谷間の棚田である。この田んぼの左の方がどうなっているのかは、今年の11日の写真(http://tanada-diary.com/date/2014/01/01)を見ていただければ、お分かりいただけると思う。谷の地形や棚田の形状が面白いだけではない。遠く琵琶湖の向こうに近江富士を望み、近景の田んぼの畔には多くの雑木が彩りを添えている。四季を通じて小鳥たちがこの木々に集まり、谷間にそのさえずりを響かせている。本当に美しい棚田の景観であり、里山空間である。

この田んぼは、伊香立の東さんが耕しておられる。撮影をしていると、年に何回かは必ずお会いする。「この谷間も埋め立てられるんですかね?」と聞くと「業者が買いには来ているが、売るつもりはないんや」と笑っておられた。その東さんを、この3年ほどお見掛けすることがなくなった。それに伴って、たちまち背の高い雑草が田んぼを覆い隠し、今は荒れ果てた耕作放棄地のようになってしまっている。何十年にもわたって東さんが流してこられた汗。その汗が、この写真のような美しい田んぼを生み出しているのだということを今更ながらに思い知らされる。田んぼでお会いするだけの関係だが、お身体を悪くされたのか、気掛かりは増すばかりである。


2月の下旬頃は比較的温暖で、気温も10度を超す日が多く、オオイヌノフグリやタネツケバナ、ホトケノザ、タンポポといった草花が少しづつ顔を出し始めていた。一転、先週から今週に掛けては雪の吹雪く冬日となった。中でも10日は、棚田一面が真っ白に染まるような3月にしては珍しい大雪であった。

この写真では、畝にタネツケバナの白くて可愛い花が咲いている。その畝の黒っぽい土の中から、雑草たちが新芽を伸ばし、徐々に畝を緑色に変えていく。枯草色の畦や土手、灰褐色の土、緑に染まり始めた畝。これが3月初旬から下旬に掛けての田んぼの代表的な色彩である。この25年、こんな田んぼの色の移り変わりに、本格的な春の気配と歓びを感じてきた。

* 花の写真については、昨年3月の  春の予感3月の雪それぞれの浅春  をご参照ください。

 

2014/03/02

足あと

雪の吹雪く寒い日も、蝉の鳴き声に包まれた暑い日も、毎日々々、この農道の上を軽トラックが走り抜けていく。アスファルトに現れた小さなひび割れ。トラックが踏みしめる度に、少しづつ少しづつ崩れ、やがて大きな水たまりが作り出されてきた。このコーヒー缶も何十回、何百回踏みつぶされてきたのだろうか?

農業という日々の営みの足あとが、こんな形でも写っている。

2014/02/23

準備

休日に仕事の入ることが多く、久しぶりに田んぼに出てみた。今日は、そのリアルタイムな仰木の写真である。枯れたひつじ田、寒さに耐える雑木の梢、2月の冷たい風が谷を吹き抜けていく。まだ辺りは冬景色である。目の前に、野焼きされた棚田の土手が何段か積み重なっていた。茶褐色の枯野に、真っ黒に焼かれた土手はいやがうえにもよく目立つ。田植えまでには、まだしばらくの時間がある。それでも棚田では、少しづつ少しづつ、今年の米作りに向けた準備が進められていた。

2014/02/16

気が付けば・・・ありがとう!

得意先からの依頼があり、昨年の11月から本業の仕事の方で新商品の開発が始まりました。加えて12月は、お歳暮商戦の只中にあり、慌ただしい年末を過ごしてきました。1月に入っても得意先への新年の挨拶回りや商品開発に手を取られ、中々忙しい年始となってしまいました。そんな訳で、HPの方は毎週更新するのが精いっぱいで、来訪者のカウントを見る余裕がありませんでした。商品開発も一段落し、先日久々にカウントデータを見てみると、何と閲覧数が15,000回を越えていました。HPを始めた当初からほとんど宣伝してこなかったことを考えると、この閲覧数はインターネットというものの不思議としか言いようがありません。

このHPは、矛盾した気持ちで始めました。片方では、一人でも多くの人々に、奥比叡の農業環境や里山の現状を知っていただきたい。できれば、美味しい奥比叡の棚田米を食べていただきたいと思っていました。反面、自分自身の写真と文章のお勉強のようなHPですので、余り多くの人々に見ていただくのは申し訳なくもあり、できるだけ「ひっそり」としていたかったという気持ちでいました。こうした矛盾した気持ちの中で、閲覧数の変化を眺めてきました。もちろんHPの世界では、1日に10万回や100万回の閲覧のあるコンテンツがあるとも聞いています。しかし私の写真と文章のレベルからして、この15,000回の閲覧は多すぎるようでもあり、嬉しくもあります。

私のHPへの延べ訪問者数は、現在10,000人を超えています。その2/3が外国の方々だということにも驚かされます。国別にみると20か国以上の人々に見ていただきました。日本と中国の方が3500人強でほぼ同数。アメリカが1,200人、ウクライナが500人、台湾350人、インド250人、ロシア200人、カナダ150人、ドイツ100人、他にルーマニア、パキスタン、インドネシア、韓国、香港、ベネズエラ、フランス、ブラジル、リトアニアなどの国の数十名の方々に見ていただいているようです。

10名ほどの中国の親しい友人には、HPの開設をお知らせしました。それ以外の外国の方とのお付き合いは、ほとんどありません。にもかかわらず、この広がりをどう考えたらいいのか?  不思議でなりません。ただ最近は、これこそがインターネットなのではないかと思い始めています。

ここに「棚田日詩」に訪問していただいた全ての皆様に、心からの御礼を申し上げます。本当に!本当に!ありがとうございました!

2014/02/09

タイムカプセル

本棚の雑然と並べられたバインダーや本の間に、隠れるように小さな紙袋が挟まっていた。その紙袋を何気なく抜き出してみると、何とその中から20年以上も前のものと思われるフィルムが100枚ほど出てきた。今日の写真は、その中の一枚をスキャンしたものである。紙袋に入れたこと自体、既に記憶がない。昔は、気に入らないフィルムをどんどん捨てていた。恐らくこのフィルムたちも、捨てるつもりで紙袋にまとめられていたのではないかと思われる。

ポジフイルムをそっと光にかざしてみると、何とも「懐かしい」伊香立の棚田が浮かび上がっていた。朝霞と琵琶湖の向こうに近江八幡の半島と沖島も見える。ここで「懐かしい」と書いたのは、今はこの風景を見ることができなくなっているからである。この棚田はすでに圃場整備され、四角い田んぼに生まれ変わっている。

 

このフィルムをどうして捨てようと思ったのか?  今では分からない。撮ったことすら忘れてしまっている。ただ考えられるとすれば、この写真があまりにも地味だったからではないかと思われる。しかし1月・2月の奥比叡は、冬枯れの棚田が当り前で、寂しくもあり地味であり、むしろ肅条とした美しさこそがこの季節の特徴だと思っている。当時は、そうは思えなかったようだ。

記憶というものは頼りないもので、何百回となくこの風景の前を行き交い、見てきたにもかかわらず、すっかり忘れてしまっている。恐らく地元の人でさえ、田んぼの形状や配置を正確に思い出せる人はいないだろう。更に世代が代われば、この風景は人々の記憶から完全に消えていく。

私は、奥比叡の棚田を後世への「記録」として撮影してきたわけではない。それにもかかわらず、記憶から消え去ってしまった風景が、20年という時を経て甦る不思議。写真というものは一枚のタイムカプセルでもあるようだ。

2014/02/02

竹林

気が付けば奥比叡の撮影を始めて25年目を迎えている。この間、柿の木やクヌギのハサ木などは、年々その数を減らしてきた。そうした中にあっても竹林や笹の類だけはその勢力を伸ばし続けてきたように見える。この写真の竹林は行き届いた手入れがされているが、ほとんどの竹林が足を踏み入れるのに躊躇するくらい荒れ放題となっている。竹林の整理にまで手が回らなくなってしまっている。それにしても、今年は雪が少ない。これは1月19日の未明に降り積もった時のものである。

2014/01/29

ポニー

奥比叡の里にも、今まで見ることのなかった新しい風景が少しづつ増えてきた。このポニーの写真もその一つである。

30数年前から仰木村に隣接する形でニュータウンが造成されてきた。そこに京都や大阪などの都会の人たちが移り住むようになった。2000年辺りを境に、この都会からやってきた人たちと仰木の地元の人たちとの交流がポツポツと目立つようになってきた。この棚田日詩でも何度か紹介してきたが、都会の人達と一緒になった米作りや炭焼き、棚田の環境整備などもその一例である。芸大主催の写生会や村の社会学的調査、里山の自然観察会なども行われてきた。

そうしたことに止まらず、ニュータウンには多様な要求を持つ人たちが集まっている。このポニーは、ニュータウンの人が棚田の中に土地を借りて育てているものである。現在4~5頭飼われているようである。時折、人を乗せて棚田巡りをされている姿を見掛ることもある。他にも、桜公園の近くにある棚田の中では、美しい名古屋コーチンを飼っておられる方もいる。この10年、私の写真にもそうした光景が写るようになってきた。

こうした光景の背景には、写真家の今森光彦さんの活動やNHKの放映などによって、この地が「里山」として注目を集め、広く知られるようになったことも大きい。また中山間地農業と都会の人たちを結び付けようとする行政的支援もある。私は、農村と都市の人々の交流がもっともっと活発に行われるべきだと思っている。しかしこうした交流を必要とする農村側の事情、労働力の不足と高齢化、後継者の不在等々といった問題、要するに農業環境を維持することが難しくなってきたという事態を考える時、このポニーに対する視線にもちょっと複雑な気持が入ってくる。


 

先々週の木曜日、突如パソコンが立ち上がらなくなってしまいました。マザーボードの交換や電源系統の修理で、ようやく昨日私の手元に送り返されてきました。一週間、更新が抜けてしまいました。この間、閲覧していただいた皆様に心からお詫び申し上げます。

2014/01/12

写っているのは棚田の土手である。この写真は、今から23年程前、田んぼ写真を始めて2年目くらいのものだと思う。当時のコダックでデジタル化してもらったものをそのまま使っている。その頃の風景写真の世界といえば、前田真三さんが一世を風靡しておられた時代である。当然私にとっても憧れの写真家のお一人であった。彼の美しくも端正な風景の中に、こんな電柱やコンクリート擁壁をモチーフにした写真はなかったように思う。この写真を撮るまでは、私の写真にも、電柱やコンクリート擁壁は写っていない。美しい風景写真を撮りたいと願うアマチュアカメラマンの一人とすれば、こうしたものを撮るのには少なからず勇気がいった。田んぼ写真を始める時、常識や固定観念などに囚われず「心に響いたものを撮ろう」と決めていた。それがこの一枚となった。アマチュアにとって写真を撮り続けていくということは、そうした固定観念などの殻を一枚づつ脱ぎ捨てていく過程であり、自分自身の美意識や写真が少しずつ信じられるようになっていく過程なのかもしれない。ただ、なぜこの風景に心惹かれたのかは、今もよく分からない。

「一度見よ、しからずんば・・・・」

私の写真友達から、「よう同じ地域の田んぼばっかり25年も撮り続けていられるなぁ。飽きへんのか?」と言われてきた。「飽きへんのか?」と問われれば、飽きることもある。しかしこの「飽きる」ということは、私自身の対象に対する見方に進歩がないということだと思っている。

25年という歳月が長いのか短いのかは別にして、一つの事柄を50年、60年と続けておられる方はいっぱいおられる。そうした方たちから見れば、私の田んぼ写真などはハナタレ小僧のようなものである。

奥比叡の棚田と初めて出会った1990年、出会ったその日にライフワークとしてこの地を撮り続けていこうと決めていた。この決意の背後には、私の心に突き刺さっていた一つの言葉があった。

私が一眼レフカメラを初めて手にしたのは1985年、35才の時である。その一年ほど前から、写真雑誌はよく見ていた。単純に写真を見るのが好きだったのと、結婚後子供ができなかったので何か老後の趣味をと思っていたからである。カメラを手にしてからは、ヘタクソな写真から少しでも早く卒業したいという思いで更に多くの写真雑誌を購読していた。ここでいうヘタクソとは、撮った時の感動が少しも他の人に伝わらない写真のことである。私の場合、撮った本人にもその感動が伝わってこないヒドイものであった。当時の愛読書は、カメラ毎日・アサヒカメラ・日本カメラ・フォトコンなどであった。その中に小さな評論文のようなものがあった。前後の内容は完全に忘れてしまったが、その評論の中の一文が強く心に突き刺さってきた。『一度見よ、しからずんば千度見よ』という言葉であった。

奥比叡の棚田との感動的な出会いと同時に、これこそ「千度」見るのに相応しい風景ではないのか?と私は思った。それから今日まで、私の写真の傍らにはいつもこの言葉があった。

 

恐らくこの言葉は、写真の世界の格言のようなものなのだろう。『一度見よ』とは、初めての出会いの瑞々しい感動を大切に写真を撮れということのように思われる。『しからずんば千度見よ』とは、そうでなければ、対象の奥深くに入り込んだ写真を撮れということではないのだろうか。もちろんこの「見よ」は一つの比喩であって、そこには様々な意味が含まれているのだろう。見る・観る・診る・視るはもとより、学べということや問題意識を持って考えろということも入っているのかもしれない。あるいはもっと広義に取れば、経験しろということも含まれるのかも知れない。当時の私は、この言葉に妙に納得した。そして対象に迫るシンプルな方法として、今も納得している。

あれから25年、「千度」を遥かに超えて見てきたはずだ。にもかかわらず対象の奥深くに入り込んだ写真を撮れているとは思えない。それが私の心象的な写真の中に反映されているとは思えない。心に、撮り切ったという満足感もない。だから今は、この格言を次のように訂正している。

『一度見よ、しからずんば万度見よ』

2014/01/05

仰木棚田米、いかがですか?

 

昨年9月、仰木の棚田で採れたお米はいかがですか?

仰木棚田米を一度食べてみようと思われる方は、

下記のURLを覗いて見てください。

http://tanada-diary.com/tanada-products/fp_01

 


 

ここはお米の生産現場であり、農業という経済活動が営まれている空間です。「昔ながらの棚田」の景観や「里山環境」がどんなに素晴らしくても、先ずはお米が再生産できる価格で売れなければ、あるいは買っていただくことができなければ、この環境を守り、維持していくことはできません。

私は都会で生活する一人でも多くの人々に、この地の美味しい棚田米を知っていただきたいと思っています。ぜひ一度、食べていただきたいと思っています。但しここでの「仰木棚田米」の応援は、私の勝手な行為であり、お米の売買には一切タッチしていません。

「昔ながらの棚田」で育てられるお米の量は少なく、限られたものです。もし申し込まれたとしても、在庫がなくなり、農家からお断りされるかもしれません。何卒、ご理解いただきますよう、お願い申し上げます。

 


今週のDiaryは、お休みさせていただきます。

2014/01/01

祈り/新しい年を迎えて

もう、何十年くらい前になるだろうか。テレビの正月番組を見ていると、ネイティブアメリカンの族長が「初日の出」に向かって祈りを捧げていた。その祈りの内容は驚くほどシンプルなものであった。「家族が健康でありますように」「家族や部族の仲間が仲良く暮らし、部族間の争いもなく、平和でありますように」「自然が豊かな実りを与えてくれますように」というものであったように記憶している。日本人の伝統的な祈りの言葉に置き換えてみると、無病息災・家庭円満・家内安全・五穀豊穣、そして平和への祈りといったところだろうか。恐らく私たちホモサピエンスの誕生以来、肌の色や民族、国境を越えて人類共通の願いがこの祈りに込められてきたのだと思う。

残念なことに私たち現代人は、まだこの願いを実現するところにまでは来ていない。社会の利害は複雑に絡み合い、今も世界のどこかで硝煙の煙が立ち昇っている。一方で発展途上国と呼ばれる地域では、9億前後の人々が飢餓の淵に立たされ、毎年1,500万人がその飢餓を原因として死んでいく。その内の約500万人が、5歳に満たない子供たちである。他方、先進資本主義国と呼ばれる国々では、需要(消費)を遥かに超える過剰な供給(生産)によって、大量の失業者を孕む「豊作(過剰)貧乏」という奇妙な現象の中で多くの人たちが苦しんでいる。

私個人について言えば、日常の些末な事柄に振り回され、目の前にある出来事にすら満足な対応が取れないでいる。せめて、心の一番奥深いところで、このシンプルな三つの願いをシンプルな形でしっかりと持ち続けていたいと思っている。そんな願いが、私の写真にも宿ってほしいと思っている。

新年にあたって改めて、皆様のご健康と、平和な環境の中での稔り豊かな生活をお祈り申し上げます。そして、奥比叡の村々の農業が、豊かな稔りをもたらしますことを心から願っています。

 


 

1月5日のDiaryは、休ませていただきます。今年もまた、宜しくお願い申し上げます。