奥比叡の里より「棚田日詩」 | DIARY

2015/03/22

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ⑤

私が初めて「里山」という言葉を知ったのは1993年か94年の頃である。当時の私は、「里山」をどのように理解したのだろうか?   2013年5月12日のDiary「里山について」を見てみよう。

【その時理解した「里山」とは、(できるだけ今森さんの言葉をなぞらえば)①  人間の手の入らない無垢の自然を第一次的な自然だとすれば   ②  里山は、人の暮らし、人の営みと互いに影響を及ぼし合って存在する生命ある自然。無垢の自然に対して里山は、二次的な自然だともいえる。要するに、人の暮らしと共にある生物学的自然、その空間だと理解した。厳密な意味で、今森さんの言う「里山」がこの理解で正しいのかどうかは自信がないが、当時も今もこのように思っている。】と書いている。

ここから、私の理解した「里山」と環境省が規定する「里地里山」の概念の違いをみていこうと思うのだが、その前に今一度環境省のいう「里地里山」の概念を確認しておきたいと思う。

「里地里山」は、【都市域と原生的自然との中間に位置し、様々な人間の働きかけを通じて環境が形成されてきた地域であり、集落を取り巻く二次林と、それらと混在する農地、ため池、草原等で構成される地域概念である。】と定義している。

この二つの「里山」についての概念の違いは明らかである。環境省の「里地里山」の定義では、《集落を取り巻く二次林・農地・ため池・草原等》とその地域にある地理的特徴によって規定されている。他方、私の理解した「里山」には、そうした具体的な地理的特徴は既になく、人間の営みと相互関係を持って存在する生きものたちの二次的自然が「里山」だと言うだけである。

世界の里山の地理的特徴は多種多様である。仮に農林水産業や畜産業といった第一次産業の営まれる地域に限ってみても、熱帯雨林における農業もあれば、大草原における牧畜もある。一年の大部分が雪と氷に覆われた地域にも、水に恵まれない乾燥地域にも、大都市に隣接した地域にも、多種多様な食物等を生産する第一次産業は存在し、同時に里山も存在している。その産業(里山)を支える地理的特徴は、《集落を取り巻く二次林・農地・ため池・草原等》の規定では捉えきれない多様性を持っているはずである。そして、その多様な地理的特徴こそが、生物多様性を生み出しているのではないのだろうか。

残念ながら、環境省の狭い地域概念を里山とするのなら、日本の農業環境から生み出される里山は説明できても、世界に広がる里山を捉えることはできない。というよりも、【集落を取り巻く二次林と、それらと混在する農地、ため池、草原等で構成され】ない所は、里山ではないということになってしまう。ついでに言えば、環境省の「里地里山」の概念を外延的に広げていったIPSIの「社会生態学的生産ランドスケープ」という概念もまた、例えば都市部における貴重な里山環境を捉えることができなくなってしまう。

他方、私の理解した「里山」は、個別具体的な里山の地理的特徴を一般化し、普遍的な概念にまで昇華されたものである。日本の農業地域にせよ、アメリカの畜産地域にせよ、熱帯雨林における農業地域にせよ、いかなる地域にせよ、そこにある里山の普遍的に存在する共通項は、人の営みと相互関係を持つ自然(生態系)だということである。

普遍的な概念にまで昇華された「里山」の意義は大きい。

2015/03/08

3月に入った。この日は雨模様。冬に逆戻りしたような肌寒い日だった。ふと足元に目をやると、小さな春が咲いていた。

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ④

「里山とは何か?」といった問いに対する答えが、少し違った形で環境省のリポートの中に書かれている。そのリポート「日本の里地里山の調査・分析について(中間報告)」において「里地里山」を【都市域と原生的自然との中間に位置し、様々な人間の働きかけを通じて環境が形成されてきた地域であり、集落を取り巻く二次林と、それらと混在する農地、ため池、草原等で構成される地域概念である。】と定義している。厳密に言えばこの答えは、「里山とは何か?」という問いに対応したものではなく、「里山とはどこか?」ということに対する一つの答えではあるが・・・・・(その後の環境省による里山に関するパンフレットには、この定義が引き継がれている)

別の文書も見てみよう。IPSI事務局の『自然とともに』というパンフレットでは、更に突っ込んだ表現になっている。【農耕などを通じ、人間が自然環境に長年関わることによって形成・維持されている二次的自然環境(SATOYAMAイニシアティブでは「社会生態学的生産ランドスケープ※」と呼んでいます)は、世界中に存在します。】【※日本里山里海評価における議論をふまえ、として使用しています。】この文書で重要なのは、IPSIが「二次的自然環境」を「社会生態学的生産ランドスケープ」と呼んでいることである。とすれば、「里山(二次的自然環境)とは、社会生態学的生産ランドスケープである」ということになるのではないだろうか?  但しIPSIでは、「社会生態学的生産ランドスケープ」とは【SATOYAMA イニシアティブが対象とする地域の呼称】と言っている。決して(=里山)とは言っていないところが微妙ではあるが・・・・・

それでは、IPSIの活動を支える最も重要な概念「社会生態学的生産ランドスケープ」とは何か?  『「SATOYAMAイニシアティブ」に関するパリ宣言』の付属文書を見てみよう。

【「社会生態学的生産ランドスケープ」は、生物多様性を維持しながら、人間の福利に必要な物品・サービスを継続的に供給するための人間と自然の相互作用によって時間の経過とともに形成されてきた生息・生育地と土地利用の動的モザイクである。】

私の理解に間違いがなければ、「社会生態学的生産ランドスケープ」とは、農林畜産業等の第一次産業が営まれる地域における二次的自然のことである。但し、環境省のいう極めて日本的な「里地里山」と違ってその範囲は一挙に世界に広がっている。しかしわが国に限って言えば、先の里地里山とほぼイコール、近似値の概念である。

ここで注目しておかなければならないのは、「里山」という概念が、「里地里山」と言われる呼称にせよ、ある一定の特徴を持った地域を指す「地域概念」だということである。そして「社会生態学的生産ランドスケープ」もまた、視野が一挙に世界に広がったとはいえ、農林畜産業等の第一次産業地域に限定した「地域概念」の性質を持った概念だということである。しかし、現代の『里山』が本当にその理解でいいのだろうか?  (続く)


【      】内の文章は、引用文です。興味のない方も多くおられると思われますので、引用は最小限にとどめました。関心のある方はぜひ、ここに出てきた団体や組織が出しているパンフレット、また引用した元の文章をお読みください。インターネットで検索していただければ、簡単に見つかると思います。ぜひ、お読みください。

2015/02/22

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ③

(前段が少し長くなりました。今回は、「ちょっと気掛かり・・・」の3回目、本題の「里山」に入りたいと思います)

もう少しだけ、私の家の中の生きものたちについても書いておこうと思う。

辺りが暗くなり始めると、部屋の電燈に羽虫やツマグロヨコバイ、小さな蛾などが集まって来た。電球の周りを飛び交っているだけなら何の問題もないのだか、小さな羽虫などは、食べているうどんの汁の中に落ちてくることがある。もちろん羽虫は取り出すのだが、多少の気持ち悪さは残る。それでも、今のように大騒ぎはせずに最後までうどんをすすっていた。これが当時の衛生観念だと言ってしまえばそれまでだが、食べ物を捨てるなどという贅沢は許されない時代でもあった。

部屋の灯りに吸い寄せられる小さな虫を待っているのか、窓ガラスの向こうにはいつもヤモリのシルエットがあった。深夜になると突然、天井裏で大運動会が行われることがある。バタバタバタッ、ドドドドッと何者かが走り出す。その緊迫した足音に目を覚ましてしまうこともあった。恐らく青大将かイタチがネズミを追い掛けていたのではないかと思う。階段下に青大将の抜け殻が落ちていたり、壁際をゆっくりと這っているのを何度か目撃している。町内の各家庭では、ネズミ採りの金網とハエ取り紙やハエたたきは必需品であった。ネズミ採りに捕まったネズミは、いつも水の中で水死させられていた。蚊にも結構よく刺されていた。縞蚊が多かった。幼稚園に上がる前の頃は、蚊帳の中で寝ていた記憶がおぼろげながらある。この辺りはさすがに繁華街で飲食店が多かった。そのせいか、どの家にもゴキブリが出没した。町内では食べ物商売をしている家も多く、ネズミやゴキブリ・ハエたちとはいつも真剣勝負だった。

50年ほど前の京都市の繁華街には、こうした小さな生き物たちの世界が人々の暮らしと伴にあった。恐らく東京や大阪の大都市においても、更に言えば、日本中のすべての都市の中においても、こうした小さな生き物たちの世界があったのではないかと思う。

そこで質問です。皆さんは、私の子供の頃に出会った草木やその周りに生きる小さな生き物たちの世界を何と呼ばれるのでしょうか?

50年前の私は、それを「自然」と呼んでいた。しかし今は、その自然を「里山」と呼んでいる。

それでは『里山イニシアティブ』(以下 IPSIとする)は、京都市の繁華街にあった自然を何と呼ぶのだろうか?

IPSIの公式ホームページがある。その中に『コンセプト』という表題のセクションがある。ここには活動の目的や意義、活動の対象と指針、そしてIPSIの簡単な歴史など、最も基本的なことが述べられている。それ故、IPSIにとって最も重要な綱領ともいうべき文章となっている。(参照: http://satoyama-initiative.org/ja/about/

先の「京都市の繁華街にあった自然を何と呼ぶのだろうか?」といった疑問に戻ろう。実は、この『コンセプト』を何度読み返してみても、先の疑問に対する答えが見つからないのである。というよりも、はぐらかされるといった感が強い。その原因を考えていくと、「里山とは何か?」といった概念規定が明確になされていないからである。

そこで、このホームページの主催?となっているUNU-IAS(国連大学高等研究所/本部:神奈川県横浜市)と環境省の他の文書の中に「里山の概念規定」を探してみることにした。(続く)


(今回は、ここまでしか書けませんでした。何とか次回までに書き上げたいと思っています。関心のある方は、時々覗いて見てください。少しづつでも文章を進めたいと思っています。)


*   この二週間、文章を書き進めようと思っていたのですが、そのための「まとまった時間」が取れませんでした。何とか時間を取って書き進めていこうと「重たい心」にムチ打っています。文章が進まなかったこと、お許しください。

2015/02/08

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ②

(今回のDiaryは、前回からの続きを書かせてもらいます)

何とか子供の頃の埋もれた記憶を掘り返しながら書いている。もう50年以上も前のことである。曖昧な点も多い。最近では、記憶力よりも忘却力?が勝っているようで、中でも「人の名前」と「いつ頃から」というような時間観念の風化が激しい。

確か小学校の3~4年生(1960年)頃から学区内がにわかに騒がしくなったように思う。阪急京都線(四条大宮~河原町)の地下鉄工事が始まったからである。カーンカーン、ドーンドン、ダッダッダッダッダッー、今まで見たことのない掘削機や重機が暗渠化された四条通りを掘り下げていた。けたたましいのは工事の騒音だけではなかった。その振動は私の家の壁にひび割れを走らせるほどだった。ほぼ時期を同じくして、私の家の隣家であった円山応挙の邸宅が取り壊され、そこに大手証券会社のビル建設の工事が始まった。もう一つ、印象に残る工事があった。私の通っていた小学校は、まだ教育制度もなかった明治2年に町衆たちによって設立された学校である。そこに明治の面影を残した立派な木造校舎があったのだが、その取り壊しの工事も始まった。今でなら歴史的な遺産として保存運動でも起こりそうだが、当時は敗戦後の経済復興最優先でためらいもなく壊されていったようだ。

突然、私の生活の中に工事現場が入ってきた。本来なら多少不快な工事現場の出現ではあったが、子どもたちは素直にその環境を受け入れていった。そしてそこを未知の遊び場として開拓していくこととなった。殊にお隣さんの応挙の庭の工事現場は、格好の遊び場となった。町内の子供たちにとって幸運だったのは、基礎工事が始まり掛けたその時に、工事が中断してしまったからである。恐らく証券不況が襲ったのではないだろうか。一年ほど工事がストップし、現場から完全に人がいなくなった。それでも工事現場全体は高い板塀で囲われており、中を見ることも入ることもできなかった。もちろん「立入禁止」である。ただ、その板塀の一部にダンプや重機が通るための大きな片開きの扉があった。その扉は閉っているのだが、扉の下と地面との間に少しの隙間が空いていた。子供が寝そべってかろうじてすり抜けられるほどの隙間である。子供たちにとって、そこが工事現場へ入る入り口となった。

工事現場に入ると、既に200年ほどの時を経てきた応挙の庭はなかった。苔むした庭は掘り返され、樹木は一本も残っていなかった。もちろん茶室も跡形もなく消えていた。剥き出しになった土の中に人の拳から頭ほどの大きさの石ころがゴロゴロとあった。基礎工事の最中であったのか、掘り返されたままの地面は凹凸が激しく、正しく荒れ地のようであった。そんな荒れ地の中に巨大な井戸のようなものが掘られていた。もちろん水はない。一辺が6~7mの正方形。深さは5m~6mほどあっただろうか。内部は、周りの土砂が崩れ落ちないように頑丈な丸太板で囲われていた。子供たちは井戸の四隅からロープを垂らし、親が見たら気絶してしまいそうな危険な遊びをいくつも考案していた。私も3mほどの高さから何度か落ちていたが、不思議なほどケガはしなかった。そこは、大人たちの来ない子供だけの秘密基地であった。落ちていた板切れを組み合わせて小屋を作り、近所に捨てられた子犬を飼っていたこともあった。春から秋かけては、雑草のコロニーに集まるバッタやコオロギ捕りに夢中になった。ここではユニークな昆虫採集もできた。剥き出しの地面は凹凸が激しく、殊にダンプのワダチは相当深く掘り下げられていた。雨が降ると、3~4日は泥水が溜っていた。その水溜りに、アメンボやゲンゴロウなどの水生昆虫がやって来るのである。こうした水生昆虫は、小学校の工事現場にできた水溜りにもやって来ていた。ゲンゴロウなどは手で捕まえては、家に持って帰っていた。早々に水を入れたガラスのコップに移し、裸電球の下で飽きることなく泳ぐ姿を見ていた。確か、お尻から空気を吸うような仕草が不思議だったのを覚えている。

たぶん一年ほどで証券会社の工事が再開され、秘密基地での遊びも終わった。小学校の6年生になると、ビルも完成し、四条通りの風景が一層都会的になったような気がした。この時期、面白い虫捕りに夢中になっていた。採集道具は虫捕り網ではなく釣竿だった。1本1mほどの竿を3本継いでいたので、全長3mほどにはなっただろうか。夜の8時~9時頃に掛けて、子供たち数人がその竿をいっぱいに伸ばして四条通りを練り歩いていた。目標物は「赤いバッタ」であった。少し説明すると、このバッタの正式名は「クビキリギス」。「クビキリギリス」とも言うらしい。当時の私たちは「首切りバッタ」と呼んでいた。今の子供たちは「血吸いバッタ」という恐ろしげな名前で呼んでいるらしい。美しい緑色のスマートな身体を持ち、血を吸ったように口の周りだけが赤く縁どられたバッタである。ほとんどの個体は緑色をしているのだが、まれに赤い色をした「首切りバッタ」がいた。赤と言っても鮮やかな赤ではなく、茶系色にくすんだ赤である。それでも誰が見ても赤いと表現できるだけの赤さを持っていた。

当時の四条通りには、アーケードがなかった。ビルを見上げると、その壁の3~6mほどの高さの所に数多くの「首切りバッタ」がへばりついていた。釣竿の一番細い先端部分を壁に押し付けて、バッタを掃くようにして叩き落とす。私たちは一晩で捕まえる「首切りバッタ」の数を競い合った。烏丸通りから河原町通りまでのビルをくまなく探し廻ると、平均で50~60匹ほどの収穫があった。多い時には100匹を超える日もあった。その中に「赤いバッタ」が入っていると、とびっきりの自慢ができた。

この都会の中の風変わりな昆虫採集は、この一年だけで終わった。四条通りにアーケードができたからだ。以来、私の人生の中で、虫を追い掛けるということはなくなった。私も中学生になり、興味の対象が大きく変わっていったからだ。

 

前回のDiaryで、私の学区に小川はなかったと書いた。不思議なことに、私は毎年仏光寺の辺りでオニヤンマを追い掛けていた。なぜ不思議かというと、オニヤンマは水のキレイな川のほとりにいるトンボだと聞いたことがあるからである。この辺りで一番近い川と言えば高瀬川と鴨川である。高瀬川は鴨川の横を並行して流れる川なので、距離的には鴨川と同じと考えてもいいだろう。私の学区から、その鴨川までの距離は0.8~1.0㎞ほどになる。次に近い川といえば京都市の西端に位置する桂川である。鴨川と比べれば周りの環境も含めて遥かに自然は豊かなのだが5.0㎞ほども離れている。常識的な判断をするのなら、恐らく鴨川で生まれ、育っていると考える方が妥当な気がする。そしてもし、鴨川を生まれ故郷としているのなら、鴨川近辺にいた方が豊富なエサにあり付けるのではないのだろうか。どうして人や人家やビルの多い都会の中心地に来るのだろうか?

ゲンゴロウなどの水生昆虫も不思議である。彼らは、どこで生まれ、育っていたのだろうか。田んぼや池が棲家だと聞くが、学区内に大きな池も田んぼもない。大きな池と言えば二条城のお堀が一番近い。それでも1.5~2.0㎞ほどの距離がある。次に大きな池がある所といえば御所である。御所までの距離も2.0㎞を超える。あの小さな身体で2.0㎞といえば、随分な距離になるのではないだろうか。京都市周辺にある田んぼは、どこも5.0㎞以上は離れている。水棲昆虫であるゲンゴロウに5.0㎞も飛ぶ能力があるのだろうか。いずれにしても、それがどうして都会の真ん中にある工事現場の泥水の中で見つかるのだろうか。私の学区内に生息環境があったのかもしれないが、工事現場の泥水の中にエサとなる小さな生き物がいたとは思えない。彼らにとって、工事現場の水溜りにどんな意味があったのだろうか。

「首切りバッタ」も変わっている。四条通りの街灯に集まる羽虫や蛾などを食べに来ていたのだろうか?  しかしどう見てもビルの壁が彼らのふるさとではない。それでは彼らはどこからやって来るのだろうか。多くのバッタがそうであるように、彼らの生まれ故郷は緑の草に覆われた原っぱなのだろう。しかし私の学区に小さな草むらはあっても、何千匹という彼らを養っていけるほどの草原は見当たらない。思い当たるのは御所である。通路以外の庭園は雑草で覆われている。あるいは鴨川の土手や東山の山裾辺りも彼らの生息域なのかもしれない。彼らの仲間には、何百キロも飛翔するバッタがいると聞く。そんなことも考えると、京都市周辺部の自然の豊かな所に彼らのふるさとがあるのかもしれない。とすれば、彼らは5~10㎞以上の距離を飛んできたことになる。不思議なことに、朝になると彼らの姿が見当たらない。確かに白いビルの壁に緑の身体は目立ちすぎる。鳥たちの格好の餌食になってしまうだろう。夜には何千匹もいた彼らが、朝になるといったいどこに行ってしまうのだろうか。

子どもの頃に、こんな疑問を持って虫たちと付き合っていたわけではない。これらの疑問は、このDiaryを書き進めていく内に心に湧いてきたものである。彼らのふるさとなども勝手に推測しているが、常識のレベルで考えているだけで、実証的・科学的根拠など何一つあるわけではない。ただ、今から50年ほど前の京都市の中心地に彼らがいたことは事実である。そしてこの都会の中心地には、彼らが生まれ、幼少期を過ごす環境がなかったか、あるいは僅かしかなかったとすれば、彼らのふるさとが別の所にあったと考える方が自然なことではないのだろうか。

京都市は小さな都市である。市街地は東西10㎞、南北15㎞ほどしかない。その小さな京都市といえども、様々な環境で構成されている。オフィス街もあれば商店街や飲食街、住宅街もある。市場や町工場もあれば神社仏閣や公園もある。小高い丘の森もあれば市内を南北に貫く川や数多くの池もある。市街地の東・北・西の周辺部は山に囲まれているが僅かながら水田もある。南に行けば、そこに農村地帯が広がっている。

こうしてつらつらと考えてみると、私の学区にあった昆虫たちの自然は、学区内だけで自立的に完結した自然ではなく、京都市の他の地域、他の環境と密接に結びついて存在していたのだという思いがますます強くなってくる。

(次回に続く)

2015/01/25

スズメのように見えるが、アトリやカワラヒワという鳥だそうだ。雪に埋もれた田んぼで、ヨモギの種などをついばんでいるらしく、何百羽と集まっていた。この鳥も警戒心が強く、一定の距離以上に近づくと一斉に飛び去ってしまう。彼らに私の姿を見せながら3時間ほど撮影していると、ようやく「人畜無害」だということを理解してくれたのか、一羽だけ随分近くにまで寄って来てくれた。(下の写真=ハクセキレイ/冬羽)

 healing-bird というブログを出しておられる井坂 瑞さんのご指摘により小鳥の名前等を訂正させてもらいました】

ちょっと気掛かり・・・私の自然体験 ①

今日のDiaryは、昨年12月10日の「ちょっと気掛かり」の文章に代わるものです。途中で終わっている「ちょっと気掛かり」を続けていくと、かなりの長文になることが予測されます。いくつかの「気掛かり」があったのですが、一つのテーマに絞り込んでコンパクトにした方が良いと思い、今日の文章になりました。それでも、かなりの長文になりますので、関心のない方は読み飛ばしてください。


 

昨年末のDiaryで「里山イニシアチブ」(IPSI)の基本的な文書の中に「ちょっと気掛かり」なところがある、と書いた。いくつかあるのだが、中でも「里山とは何か?」といった本質的な問題のところで少し引っ掛かっている。その問題を考える前段として、私の子供の頃の自然体験を振り返っておこうと思う。時代は今から50年ほど前に遡る。場所は京都市の中心街。私が小学校1年生から6年生頃までのことである。

京都市内の道路は、碁盤の目のようになっている。市の中心街と言えば、南北に走る烏丸通りと河原町通りに挟まれた四条通り(東西を結ぶ)の辺りである。狭い区域に大丸や高島屋・藤井大丸といった百貨店が三つもあり、日本を代表する銀行や証券会社の支店が並んでいる。祇園祭では、鉾が巡航するメインストリートともなっている。四条通りに平行して走る一本北の道は、京都の台所と呼ばれる錦市場の通りである。野菜・魚・肉といった生鮮三品から京都の伝統的な加工食品まで、ありとあらゆる食べ物屋さんが軒を連ね、威勢のいい客寄せの声が響いている。錦市場は、この辺りの庶民の台所であっただけでなく、京都市の中心街にある旅館やホテル・飲食店のみならず、少し離れた祇園や花見小路辺りのお茶屋さんや飲み屋街の台所ともなっていた。私は、こうした都会の繁華街の中で少年期・青年期を過ごした。

私の家のお隣さんは、円山応挙(江戸時代の日本画家・円山派の祖)の居宅であった。この邸宅は四条通りに面しており、千数百坪はあっただろうと思えるほどの敷地の中にあった。小学生だった私の印象からすると、豪邸というよりもほとんどが庭であった。その庭が、私の家の小さな窓から一望できた。子供の頃の記憶で定かではないが、苔むした庭の中に何十本もの松の木が伸び、その松の間に人の背丈ほどの木々が点在していた。松林の中には、小さな井戸と美しい茶室のようなものがあった。毎年春になると梅か桃のような木が花を咲かせ、その木にやって来るウグイスの声で目覚めてしまうほどだった。夏になると、アゲハ蝶やアオスジアゲハ・カラスアゲハなどが木々の間を優雅に飛び交っているのを飽きもせずに眺めていた。小さな窓から身体半分を乗り出して手を伸ばせば、椎の実やミノムシを採ることができた。しかしこの庭には、一度も入ったことがなかった。手入れが隅々にまで行き届き、どこか凛としていて、子どもが遊んではいけない空間のように感じていた。

当時はまだスーパーマーケットもなく、近所には魚屋さんやお米屋さん、豆腐屋さんや酒屋さんなどといった町の小売店が数多く残っていた。私の町内には魚屋さんがあり、さばいた魚やイカ・たこ・エビ、貝類などを刺身や焼き魚・煮魚にして軒下に並べて売っていた。前を通ると魚臭い臭いと煮付けの美味しそうな匂いが混じりあって、客だけでなく、厄介者の銀蠅なども盛んに集まって来ていた。毎年春になると、その銀蠅を目掛けて何十羽というツバメがやってくる。瓦屋根の軒が連なる狭い道路の上を、地面すれすれに滑空するツバメは本当にカッコ良かった。錦市場などが近所にあることを考えると、恐らく何百羽という単位でこの辺りにやって来ていたのだろう。何軒かの軒下には、泥で固めたお椀型の巣が作られていた。毎年その巣の中で卵を産み、数羽のヒナが親鳥の帰るのを待ちわびてうるさく鳴いていた。そのヒナの糞が落ちてきて玄関前を汚すことになるのだが、誰もツバメを追い払おうとはしない。それどころか、巣を作りやすいように軒下に板を敷いてやったりしていた。秋になると、その年に巣立った子ツバメと一緒に南の空へ帰っていく。そして町内は、少し静かになる。

都会の中心街といっても、生きものたちの自然はある。少し大きな自然、中くらいの自然、小さな自然が都市の片隅に息づいていた。先ずは、大きな自然から見ていこう。

私の小学校の学区内には公園が一つもなかった。その代りというのも変だが、仏光寺(真宗仏光寺派総本山)という大きなお寺があった。その仏光寺の門前には、数軒ほどの小さなお寺が固まってあった。仏光寺には銀杏の大木やモミジの古木、クスノキやサツキなどといった木々があり、周りのお寺の庭にもモミジやサルスベリ、ザクロやビワやシュロ、ナンテンやアオキなどの木々が植えられていた。季節の草花がそれぞれのお寺の庭に咲き乱れるこの辺りは、学区内で最も自然が豊かな所だったのではないだろうか。学区内には川のような水辺も一つもなかった。その代りと言えるほどの規模ではないが、仏光寺やその周りのお寺の小さな池がそれに代わっていたように思われる。毎年トンボたちがその池にやって来て、盛んに卵を産み付け、やがてヤゴとなり、成虫となって飛び立っていく。そんな生態を支える貴重な池だったのではないだろうか。仏光寺近辺は、私たち子供がコオロギやバッタ、セミやトンボ、チョウチョやホウジャク、クモやハチ、カエルやヘビ、コウモリやイタチ、スズメやハトなどと出合い、遊ぶことのできる大切な場所となっていた。

私の通った小学校にも少し大きな自然があった。校門から校舎に行くのに木立の間を抜けていかなければならなかった。記憶をたどれば、桜・モミジ・サルスベリ・ザクロ・アオキ・キンモクセイ・樫の木などの木々があったように思う。その木立の中に、豊臣秀吉が使ったといわれる井戸と二宮金次郎の銅像が建っていた。そうだ、夏ミカンの木もあった。この木の周りにアゲハ蝶が盛んにやって来て、葉っぱの裏側に黄色い卵を産み付けていた。やがて黄緑色の美しい幼虫が現れ出すと、からかい半分に指で突っついてやる。幼虫は怒ってオレンジ色のツノを出す。その時、何とも言えない臭い匂いも一緒に放出する。それが面白くて、また突っついてやる。この木を見ていると、卵から幼虫、さなぎ、成虫とアゲハ蝶の変態の様子を一通り観察することができた。春には桜、夏はサルスベリ、秋になるとキンモクセイの花が咲き、冬を前にしてモミジが紅葉した。キンモクセイの甘い香りに包まれて歩く時、何とも幸せな気持ちになったのを思い出す。6年間、これらの木々の下を通って校舎まで行っていた。これらの木々に、季節の変化というものを教えてもらっていたのかもしれない。応挙の庭園を除けば、仏光寺と小学校。この辺りでは、そして都会の子供たちにとっては、ここが「大自然」であった。

この辺りで「中くらいの自然」といえば、かなり規模は小さくなるが、それぞれの家に作られた庭になる。2~4坪ほどの庭が多いのだが、京町屋独特の中庭などもあり、なかなか興味深い生きものたちの自然があった。変わり者としては、地面の穴の中に住む小さなクモがいた。穴の出入口にはクモの糸で編まれた薄いフェルト布のような材質の丸い蓋が付けられていた。クモが出入りする度にその蓋が上下にパカパカと開いたり閉まったりしていた。その蓋を目を凝らして探すのだが、地面と保護色になっているためになかなか見つからない。見つけたら最後、蓋を引きちぎり、穴の中に木の枝を突っ込んで巣を破壊していた。アリの巣なども、見つけては水攻めをしていた。ダンゴ虫もどこの庭にもいた。丸めて転がしたり、放り投げたりしていた。当時はこれも遊びの一種だったのだろうが、子どもは昆虫などに対して本当に残酷である。

こうした京町屋の庭は、学区内に数多く点在していた。大抵が苔むした庭に手水鉢(ちょうずばち)があり、モミジやナンテン、千両や万両のような赤い実のなる観賞用の木が多く植えられていたように思う。というよりも、正月の飾り付けに使うという実用的な目的で植えられていたのかもしれない。その実を食べに来るのか、冬でも小鳥たちのさえずりが聞こえる庭だという印象が残っている。

もっと「小さな自然」が息づく所もあった。京都は路地(ろうじ)が多い。私がよく遊んだ路地の道には石畳が敷かれていた。敷き詰められた石畳に沿って、その両側に30~40㎝ほどの幅で土の露出した所があった。春になると土のそこかしこから小さな雑草たちが芽吹いてくる。放って置くと、あっという間に雑草で埋め尽くされてしまう。そんなわずかな空間にある雑草たちに、毎年々々シジミチョウが卵を産みつけ、濃紺の可愛い幼虫がその草を食べて巣立っていく。しかしそこは、私たち子供にとってはビー玉遊びの場でもあった。先ずは、3~4mほどにわたって雑草を全部引き抜く。それから土をきれいに均(なら)していく。その土の表面にビー玉が入るくらいの窪みをいくつか開けると、戦闘が開始される。しかしビー玉遊びの度に、草抜きである。抜いても抜いても、次から次へと草は芽吹いてくる。

ここの雑草に水の心配はいらなかった。京都の町はどこでもそうだと思うのだが、朝早くと夕方に自分の家の前の道路を掃除する。どの家もお母さんやおばあちゃんが出てきて、道に落ちているゴミや枯葉、小石などを掃き取っていく。その掃除が終わると、打ち水(冬を除く)である。石畳にまかれた打ち水は、やがて雑草の方にも流れ込む。今思えば、京都市に住む人々の古くからの習慣が、こんな小さな小さな雑草の群落を育て、その雑草に支えられた昆虫や小鳥たちの生命を育んでいたのかもしれない。

以上が、小学3~4年生の頃までの私の身の回りにあった自然である。既に50年を超える時が過ぎている。かすかな記憶を頼りに書いているので、思い違いも少なくないと思う。

奥比叡の里の自然環境と比べれば、水田もなければ雑木林もない。竹林もなければ溜め池もない。小川や山もない。アスファルトに覆われた都会では、土が露出した所の面積比率が極めて小さい。草食・肉食を問わず、大多数の生きものたちの命の土台となっている植物にとっては、厳しい環境にあったといえる。カブト虫やクワガタ、玉虫やホタルは図鑑の中でしか見ることのできない「あこがれ」の昆虫であった。生き物たちの多様性という意味でも、その個体数においても、かなり制限された環境にあったのではないだろうか。

それでも、子どもたちに四季の変化を感じさせ、目の色を変えて虫採りに興じさせるくらいの自然は残されていたようだ。この自然も、小学校の4年生頃から少し変わっていく。殊に四条通りの変化は激しかった。 時は高度経済成長期。1960年(昭和35年)を前後する頃である。京町屋と呼ばれる古い家屋が取り壊され、四条通りがビルの街に変わっていきつつあった。先の円山応挙の邸宅も取り壊され、その跡地に二つの証券会社の見上げるようなビルが目の前に現れた。(続く)

(この続きは次回のDiaryで書かせてもらいます)

2015/01/11

灯明(とうみょう)

辺りが暗くなり始める頃、お地蔵様を祀った祠(ほこら)に明かりが灯される。この灯明は、単なる物理的な火ではない。仏様に供える灯火であり、この世の闇(迷いや煩悩)を照らす智慧(ちえ)の光だと信じられてきた。

私は「お地蔵さん」や地蔵信仰については全くの門外漢である。ただ奥比叡の農村風景を撮り始めてから、お地蔵さんの古くなった「よだれかけ」やお供えの花やお菓子を取り替えているおばあちゃんをよく見掛るようになった。その時おばあちゃんは、決まって手を合わせ、何かを祈ってそこを去っていく。どう見ても儀礼的な祈りではない。信仰心のない私にも、おばあちゃんの願いや祈りが深くて真摯なものであるのは分かる。かつて、そんなおばあちゃんの姿を見て、お地蔵さんや地蔵信仰に関心を持ったことがある。ここからの文章はその時に調べた事柄を記憶に従って書いていくことになるので、とんでもない誤解や誤りがあるかもしれない。(そのつもりで読んでください)

現代においても人々から親しまれている「お地蔵さん」は、仏教が教えるところの菩薩のお一人であり、正式には「地蔵菩薩」のことである。地が蔵していると書いて地蔵。その(大)地が蔵しているものは、すべての生命を育む力である。「地蔵菩薩」とは、そんな大地と同じ無限の慈悲によって苦しむ人たちを救ってくれる仏様という意味であるらしい。恐らくこの田園地帯にある地蔵様の多くは、豊年満作を大地に願う祈りの対象となってきたのではないだろうか。

地蔵信仰の歴史は古い。既に奈良時代には、仏教の経典によって中国から伝わっていたようだ。平安時代後期の末法思想が、衆生を救う菩薩として地蔵信仰を庶民の間に広めていった。その後の中世・近世と「お地蔵さん」に求められる人々の願いは多様化・細分化され、「子育て地蔵」「延命地蔵」「艶書(ラブレター)地蔵」、安産祈願の「腹帯地蔵」、眼の病気の回復を願う「片目地蔵」、いぼ・ほくろを取る「瘡(かさ)地蔵」、とげを抜く「とげぬき地蔵」、果ては自身の災難を救ってくれる「身代わり地蔵」まで現れた。今から見れば少しユーモラスでちょっぴり可哀そうな気もするお地蔵さん達だが、医療や科学などが未発達な時代にはこうした地蔵様たちに頼らざるを得なかったのではないだろうか。いずれにしても、京都で子供時代を過ごした私にとっては、夏休み最大のイベントである「地蔵盆」の体験と結びつき、子どもたちを守ってくれる仏様といったイメージが強い。

人が作り出す風景は、人の心が作り出す風景である。逆に言えば、人の作り出した風景には人の心が宿っている。世の中には深い信仰を持つ人、信仰とまでは言わなくても漠然と神や仏に祈る人、私のように信仰とは程遠い生活をしている者、というように様々な人々がおられる。それぞれの立場でこの写真の風景をどう見るかということはさて置いて、千数百年という途方もない時を経てきた日本人の心が写っていることは確かである。夕暮れ時、今日も灯明が灯される。

2015/01/01

明けましておめでとうございます

奥比叡の農村風景を撮らせていただいてから25回目、「棚田日詩」を始めてから3回目のお正月を迎えることとなりました。私自身について言えば、そのことに特別な感慨があるわけではありません。これまで通り大好きな田んぼに出て、ボチボチというか、コツコツというか、淡々と写真を撮り続けていければ、それが何よりのことだと思っています。

ただ新年に当たって、更に美味しいお米が育ちますように!  米づくりの情熱と誇りが若い人たちにも受け継がれていきますように!!  そして、いつまでもいつまでも野の草花が咲き乱れ、ホタルが飛び交い、カエルやコオロギや鳥たちの鳴き声に包まれた里でありますように!!  そんなことを強く願わずにはおれません。

家族を慈しみ、郷土を愛す。そんな豊かな時間が、平和という環境の中で全ての人々に訪れますことを心からお祈り申し上げ、新年の挨拶とさせていただきます。(於:大津市仰木「小椋神社」)


 

高校の2年生から学校へも行かず、18~9才の頃は、徹夜麻雀に明け暮れ、遊ぶことに夢中でした。当然、卒業時の主要五教科の成績は全て1。学校側の配慮による数回に亘る追試の結果、ようやく卒業できた落ちこぼれでした。そんな生活の中では、「家族」や「郷土」を意識することなど一度もありませんでした。もし潜在的に意識していたとすれば、「家族」や「郷土」に嫌悪し、反発すら感じていたのかもしれません。

振り返れば、自身の愚かさから家族を始め、多くの人たちにご迷惑をお掛けしてきた反省の多い人生だったように思います。「家族」や「郷土」などという言葉を使っている今、「あゝ、本当に歳をとってしまった」のだと、つくづく・しみじみ思う新年であります。

2014/12/24

華やぐ冬景色

鈴なりに実を付けた柿の木が、冬の棚田を彩っている。木によって個体差があるようだが、今年は豊作の年に当たったようだ。というよりも、所有者によると「こんなに沢山の実が付いたのは記憶にない」そうだ。柿の木自身の成長の周期のようなものでそうなるのか?  それとも気候などの外的要因が影響しているのか?  私には分からないが、冬の枯れた棚田が少し暖かく華やいで見える。

雑木林の向こうに雪をかぶった山並みが見える。比良山系である。比良山系は、その高さ(最高峰1214m)においても琵琶湖の湖西地区を代表する山々である。と同時に、恐らく湖西地区の気候風土や生態系などに絶大な影響を及ぼしていると思われる。この山々が白く染まると、誰もが本格的な冬の到来を実感する。その比良山系を仰ぎ見る奥比叡の棚田では、年末までの最後の農作業、土手の草刈りや田起こし・水路掃除などに忙しい。


 

今年もクリスマスのイルミネーションを撮らせていただこうと思っていたのですが、仕事も残業が続き、ついにその機会を逃してしまいました。

今回が、今年最後のDiaryとなります。もうすぐ3回目のお正月を迎えます。こんなに長く続けるつもりはなかったのですが、毎週見ていただく皆様に励まされてここまで来れました。本当にありがとうございます。皆様にとって来る年も良い年でありますように、心からお祈り申し上げます。

2014/12/10

ちょっと気掛かり

「里山イニシアチブ」という取り組みをご存知ですか?    最近の私は、そうした情報への感度も低く全く知りませんでした。この9月、田んぼでお知り合いになった大学の先生から初めてその活動のことを教えていただいたのです。早速、先生からいただいた資料やインターネットのいくつかのコンテンツを見てみました。まだ落ち着いて読めていないので、誤った理解があるのかもしれませんが、いくつかの「違和感」のようなものを感じました。その違和感が何なのか?  この文章を書き進めていく中で整理してみたいと思います。

   里山イニシアチブの活動が始められる直接的な経緯については、2010年の『「SATOYAMA イニシアティブ」に関するパリ宣言』において次のように書かれている。(【・・・】内は引用)

【SATOYAMA イニシアティブに関する国際有識者会合が、パリの国連教育科学文化機関(UNESCO)本部で2010 年1 月29~30 日に開催された。本国際会合は、これに先立ってアジアで開かれた2つの準備会合(2009 年7 月25日於:東京、2009 年10 月1~2 日於:マレーシア・ペナン。各会合の報告資料についてはwww.satoyama-initiative.org/jp/を参照のこと)の成果を踏まえ、日本 国環境省(MOE-J)及び国連大学高等研究所(UNU-IAS)の主催並びにUNESCO、 国連環境計画(UNEP)及び生物多様性条約事務局(SCBD)の共催で開催された。】

   2010年、これまで個々バラバラに行われていた里山再生の取り組みを、国際的な連携・協力の下に進めていくために「IPSI」(SATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ)という機関が創設された。暫定的な事務局はUNU-IAS(国連大学高等研究所)が務めることとなり、里山についての調査・研究、里山再生活動の情報などを一元管理し、共有していくセンター的役割を担っていくようだ。(続く)


やはり12月! 年末商戦の真っ只中。忙しくて、日曜日に更新できませんでした。「IPSI」のホームページに、その基本的な考え方を示す「概要≪ ttp://satoyama-initiative.org/ja/about/≫」が書かれています。関心のある方はぜひご一読いただきたいと思います。違和感はいくつかあるのですが、「里山とは何か?」といった本質的な問題も含まれる違和感だけに、私自身も何とか整理して、この文章を続けていきたいと思っています。

2014/11/23

放射冷却

すでに晩秋。風もなく、雲一つない満天の星空。こんな素敵な夜中に限って、地表の熱は急速に奪われ、気温はどんどん下がっていく。放射冷却という気象現象が起りやすくなるからだ。

朝の6時過ぎ、暗闇に包まれた細い農道を注意深く車を走らせる。田んぼを見る時は、真夏でも真冬でも、昼でも夜でもいつも窓を開けて走るのが習慣となっている。この日は、その開け放たれた窓から少し早い冬が一気に入り込んで来た。

快晴の空に太陽が昇り始めた。朝のすがすがしい光が棚田に輝きを与えていく。薄っすらと田んぼが白い。霜が降りて来たのだ。放射冷却によって、いつもとは違う棚田の表情に心が躍る。

今日の写真の主人公は、誰も気に留めないような小さな草むらの雑草たちである。わずか一坪ほどもない草むらにも、地球の息吹と野の草花たちが一緒になって創り出す奇跡のような世界が広がっている。雑草と呼ばれる草花たちの霜に彩られた最後の秋が美しい。

2014/11/09

秋光

ようやく里の雑木も色づき始めてきた。田んぼでは、この時期の風物詩である秋耕に忙しい。ほんの一時、黒く垂れこめた雲間から美しい秋の陽射しが降りてきた。

(年末に向けた仕事が忙しく、しばらく長い文章は書けそうもありません)

2014/10/26

「ホッ」

この辺りは、ほとんどが兼業農家である。働き盛りの人たちの多くは、サラリーマンやお商売をされている。田んぼを守っているのはおじいちゃんとおばあちゃん。それでもサラリーマンのかたわら、田んぼに出て米づくりに励んでおられる方もいる。

 

もう20年程前になる。当時、私と同世代の40才代くらいと思われる方が農作業をされていた。「こんな小さな田んぼ、家族が食べる分しか出来へん」「普段はサラリーマンをしているから、もう止めてもええんやけど・・・・」「それでもここに来て汗を流していると、何でか知らんけど心がホッとするんや」。農作業の手を止め、棚田の向こうの琵琶湖を遠くに見つめながらそんなことを話しておられた。

そんな言葉が思い出される中で、下の写真のシャッターを切っていた。私もここに来るとなぜか心が伸びやかになる。「ホッ」とする。もちろん私は農業に携わっていない。置かれた立場、経てきた経験が異なれば同じ「ホッ」でも中身は異なるのだろう。それでも私の写真は、奥比叡の里の「ホッ」を撮りたかったように思う。

ふと、足元の小さな空き地を見ると、秋の虫の音に包まれながら「エノコロ草」が広がっていた。白い花は、今年最後のヒメジオンだろうか? それとも野菊の仲間のヨメナだろうか?  こんな日本画があったかどうかは知らないが、一幅の日本画を見ているようだった。

2014/10/12

稲刈りが終わって

夏は、蝉の鳴き声が頭の上から落ちてくるように響いている。今はその声もなく、足元の草むらからコオロギなどの鳴き声が優しく聞こえるだけである。既にほとんどの田んぼで稲刈りは終わり、残されているのは酒米と古代米の田んぼだけとなっている。それでも棚田では、来年の米づくりに向けた土手の草刈りや秋耕、田んぼの直焼きの作業が黙々と行われている。



  明日は巨大台風19号がやって来るようだ。いくつかの休耕田で枝豆が育てられている。その葉の黄葉が朝夕の射光線に透かされて美しい。被害がなければいいのだが・・・・・

2014/09/28

秋へ

さすがに9月の下旬ともなると、ほとんどの田んぼで稲刈りが終わっている。所々に残っている黄金の田んぼも、今月中には刈り取られるはずである。この辺りでは、「ミルキークィーン」や「コシヒカリ」・「キヌヒカリ」といった品種から収穫されていく。すし米として広く使われている「日本晴れ」や絶品と言われるもち米の「滋賀羽二重」などは今月中の稲刈りとなる。酒米となる「山田錦」、古代米と呼ばれる「赤米」や「黒米」といった品種の稲刈りは更に遅く、10月初旬頃から下旬に掛けて行われる。

9月、黄金に輝いた田んぼも一枚、また一枚と刈り取られ、稲わらと土色の田んぼに変わっていく。その度に、秋へと向かう季節の淋しさのようなものを感じてしまうのは私だけなのだろうか?

2014/09/14

La・La・La♪ i・Ne・Ka・Li

昨日(9月13日)は、棚田オーナーたちによる稲刈りの日だった。主催は、このホームページでも度々紹介させていただいた「平尾  里山・棚田守り人の会」と「リビング滋賀」によるものである。年々参加者も増えているのか、総勢100人以上の人たちが朝の9時過ぎから稲刈りに取り掛かった。今年は残暑も弱々しく、湿度も低い。この日も、すがすがしい秋日和の中で気持ちのいい汗が流されていた。

ところで、「棚田オーナー制度」についてご存じでない方もおられるかもしれないので、ここで少し、私の知っている範囲で説明させていただこうと思う。

1992年(平成4年)、高知県の梼原町(ゆすはらちょう)の千枚田でわが国初の「棚田オーナー制度」が試みられた。その後、全国の中山間地の農村にこの制度が広まっていったようだ。現在どれくらいの地域でオーナー制が採られているのか? オーナーとなっておられる方が全国で何人くらいおられるのか?  といったことについては、正確な数字は持ち合わせていない。

ここ仰木では2006年、「平尾 里山・棚田守り人の会」によって棚田オーナーの募集が行われ、オーナーによる田植えや稲刈りが始まった。(続く)

*  年末に向けた仕事が忙しく、文章が中途半端になっています。落ち着いた段階で書き進めてまいります。